尼子攻め──城を言葉で開ける
厳島後、防長二ヶ国を接収した元就は、月山富田城の雄、尼子氏との最終決戦に向かった。ここで元就の調略は、いよいよ「戦わずに城を開ける」精度に達する。
永禄五年(一五六二)からの第二次月山富田城攻めで、元就は力攻めを厳禁した。これは、緒戦の白鹿城攻めなどで損害に懲りたともいわれている。そして力の代わりに、城への兵糧搬入路を断つ長期包囲を敷き、並行して城内へ調略の矢を射続けた。
「城を出て降る者は身分を問わず助命し、望む者は召し抱える」──この方針を繰り返し城内に流し、投降のハードルを下げ続けたのである。
飢えと猜疑で城内の結束が緩むと、重臣クラスの脱落が始まる。尼子譜代の本城常光が降ると、石見の国人は雪崩を打って毛利方に転じた。
永禄九年(一五六六)、ついに月山富田城は開城。
難攻不落を誇った天下の名城は、最後まで総攻撃を受けることなく落ちた。注目すべきは、元就が降伏した当主尼子義久を殺さず、幽閉にとどめたことである。
当主の助命は「降れば生きられる」という毛利の信用を担保する広告であり、以後の中国経略で降伏勧告の効き目を高めた。調略は一回ごとの取引ではなく、長年の評判の積立なのである──元就はそれを理解していた。
もっとも、本城常光を降伏後に棒殺したように、元就は降将の粛清も辞さなかった。
このため「毛利の約束は当主級には手厚く、国人級には危うい」という微妙な評判も生じ、後の尼子再興軍(山中幸盛ら)に旧尼子系国人が呼応する遠因となる。
調略の信用は資産であると同時に、一度の毀損が長く祟る負債にもなる。元就ほどの名人にして、この帳尻は難しかった。




