調略を支えた社会の構造
もっとも、調略が戦国時代にこれほど発達したのは、裏切りが「可能」であり、しばしば「正当」ですらあった社会構造が存在したからである。
第一に、戦国の主従関係は双務契約だった。家臣は主君に軍役を奉仕し、主君は家臣の所領を保障する──いわゆる「御恩と奉公」である。ということは、主君が所領を守れなくなったら、契約は事実上失効してしまう。なので家臣がより頼りになる主君へ乗りかえることは、現代人が想像するような「不忠」だと一括りにできるものではなく、家と一族の存続をあずかる者の責任ある判断とみなされる余地があった。
第二に、大名領国の内実は国人領主の連合体だった。戦国大名は絶対君主ではないのだ。その支配領域には、独自の城と兵と所領を持つ国人・土豪が層をなして存在し、大名は彼らの盟主を名乗っているにすぎない場合が多かった。たとえば毛利元就の例では、彼自身がもともと安芸の一国人で、国人一揆の盟約文書に名を連ねる立場から身を起こしている。国人たちは大勢力の間で常に去就を計算しており、彼らこそが調略の主戦場だった。
第三に、家督相続が不安定だった。長子相続は確立しておらず、実力と家臣団の支持が後継者を決めた。そのため、どの家にも、不満を抱く庶子、傍流、廃嫡された兄がいた。外部勢力がこの亀裂に手を差し込めば、家は内側から崩壊する。お家騒動は、調略者にとって最高のきっかけだ。戦国の系図を眺めていると、兄弟仲の良い家を探す方が難しい。
つまり調略とは、戦国社会に無数に走っていた亀裂──主従の利害、国人の自立性、一族の対立──を見つけ出し、そこに楔を打ち込む技術なのである。優れた調略者とは、人間と社会の弱点を見抜く優れた観察者だった。
とっても読みづらいスターティングですね。もうちょっとだけおつきあいください。




