されど信義あり
最後に、この作品を貫くもう一つの問いを述べておきたい。調略の歴史とは、突き詰めれば「人はなぜ裏切り、なぜ裏切らないのか」の歴史である。
戦国の調略者たちは、人間が利害で動くことを知り抜いていた。しかし同時に、利害だけでは人が動かないことも知っていた。だからこそ彼らは起請文で神仏に誓わせ、人質で情を縛り、婚姻で血をつなぎ、面目という無形の資産を丁寧に扱った。
秀吉が「人たらし」と呼ばれたのは、金銀を惜しみなく撒いたからだけではなく、相手が本当に欲しているもの──多くの場合それは所領よりも、誇りと安心だった──を見抜く目を持っていたからである。
冒頭の三木城を思い出してほしい。
秀吉は城主の首を求め、しかし城主の名誉は最大限に立てた。長治の辞世は「領民の命に代わる若き殿」の物語として語り継がれ、その物語は秀吉自身が丁重に扱うことで完成した。敵将を殺しながら、敵将の物語を守る──この奇妙な両立の中に、調略という技術の核心がある。
調略とは、人間理解の技術である。それは戦国という極限状況で研ぎ澄まされたが、扱っている素材は今日の組織や交渉の場と何も変わらない。読者がこの作品を、遠い時代の謀略譚としてだけでなく、人を動かすことについての一つの長い考察として読んでくださるなら、それに勝る喜びはない。
では、時計の針を巻き戻そう。まずは、戦国武将たちが知ってか知らずか、実践していた思想の源流──二千年前の中国で生まれた一冊の兵法書から話を始めよう。
ようやく始まります。ごめんなさい。
ちなみにですが、冒頭の三木合戦で秀吉が築いた付城は、確認されているだけで四十近くあって、その多くが今も兵庫県三木市周辺の尾根に残っています。
平成には新たな発掘調査があって、つけ城群と土塁は「三木城跡及び付城跡・土塁」として国史跡に指定されました。
私も行ってきたのですが、現地を歩くと、直径数十メートルの曲輪と堀切が、城を望む尾根筋に数百メートルおきに連なっています。一つ一つは小さな砦なんですが、点と点が線になったり、線が面になったりして、城は「土の檻」の中に入ってしまう感じになります。籠城側から見れば、地平線が少しずつ土色に変わっていくのは恐怖なんだろうな、と思ったのが冒頭のシーンです。
攻城兵器の乏しい日本の戦国では、最強の兵器は大量の人足と、彼らに飯を食わせ続ける兵站──そんなことを考えました。
『信長公記』(太田牛一)──三木合戦・播磨戦線の基本史料
別所長治の辞世(『播州太平記』など後世の編纂物に所収。伝承としての性格に留意)
『孫子』謀攻篇(金谷治訳注『新訂 孫子』岩波文庫)
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日選書)──兵農未分離の軍隊と戦場の実像
呉座勇一『戦争の日本中世史』(新潮選書)──中世の戦争と裏切りの構造
三木市教育委員会による三木城跡・付城群の調査報告──包囲網の考古学的実証




