「謀多きは勝ち、少なきは負け候」
毛利元就が残したと伝わる言葉に、「謀多きは勝ち、少なきは負け候」というものがある。
出典は後世の編纂物であり、元就自身の発言と確証はできないが、この一句ほど元就の生涯を要約する言葉もない。安芸国吉田郡山城主・毛利家は、元就の家督相続時点で、動員力にしてせいぜい数千の一国人にすぎなかった。
それが元就一代で、中国地方十ヶ国を制する西日本最大の勢力となる。その拡大の主動力は、合戦ではなく調略だった。
だが、元就を「生まれついての謀略家」として描くのは正確でない。
彼の調略は、あくまでも弱者が生き延びるための必要から鍛えられた。安芸国は、東の尼子(出雲)と西の大内(周防)という二大勢力の緩衝地帯であり、安芸国人はこの二強の間でも去就を強いられ続けた。
どこかで判断を誤れば即、滅亡。
元就自身、家督相続の段階ですでに異母弟を担ぐ勢力を粛清し、大内方と尼子方の間を状況に応じて渡り歩いている。彼の調略の教師は、書物ではなく、この綱渡りの二十年だった。
見落とされがちだが決定的に重要な事件が、天文十九年(一五五〇)の井上一族誅殺である。
井上氏は毛利家中最大の重臣一族で、その専横は当主の下知が通らぬほどだった。元就は一夜にして井上元兼以下一族三十余人を討ち、直後に家臣二百三十八名から「今後は元就の下知に従う」旨の連署起証文を取り付けた。
この起請文は現物が今も毛利家文書として残されている。粛清そのものより、粛清を家臣団全体の誓約更新の儀式へ転化した手際にこそ、元就らしさがあるのではないか。
敵を切り崩す前に、自分の家中から切り崩される可能性を摘む──「攻守一体の調略」であった。




