早雲小括
早雲の調略を整理すれば、三つの発明に要約できる。
第一に、大儀名分の徹底活用。中央の権威が衰えた時代にこそ、権威の断片は安価で効果的な武器になることを示した。
第二に、民心という新戦場の発見。税と統治の質そのものを調略の道具に変えた。
第三に、待つ技術。相手の失策を待ち、包囲で枯らし、評判が浸透するのを待つ──時間を味方につける調略である。
これらは早雲以降、消耗の激しくなる戦闘において、ますますその効力を発揮していくことになる。
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次章の主役は、早雲より一世代後、中国地方の小領主から身を起こし、謀略の代名詞となった男である。
その主役である毛利元就の凄みは、権謀術数そのものよりも、二大勢力の狭間で二十年間生き延びた「弱者の調略」の精度にある。
先に触れた厳島の欺瞞工作は、その集大成にすぎなかった。
というわけで、早雲さんはここまでです。
ちなみにですが、彼の生年は長く康正二年(一四三二)とされ、伊豆討ち入りは六十二歳、没年八十八歳の大器晩成伝説が定着していました。
ところが近年の研究は、史料の再見当から生年を康正二年(一四五六)とするのが有力になって、結果的に早雲は一気に二十四歳若返ったのですね(笑)。
で、この説に従えば、伊豆討ち入りは三十八歳ですから、家督調停への介入は三十代前半になるわけで、「浪々の末に六十過ぎで一念発起した老雄」は、「幕府キャリア官僚が三十代で地方に転じ、五十代で関東の覇者となった」という現実的な出世譚に変わりました。
- 『早雲寺殿廿一箇条』(『中世政治社会思想』などに所収)──早雲の家訓
- 黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』(角川選書)──実像の書き換えと生年新説の整理
- 家永遵嗣らによる明応の政変と伊豆討ち入りの連動に関する研究
- 『北条五代記』『相州兵乱記』──小田原奪取など軍記系伝承(史実性に留意)
- 北条氏印判状(「禄寿応穏」虎朱印)──民政の制度化を示す文書群
- 黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)──北条領国の民政




