小田原、そして「禄寿応穏」
相模進出の足がかりとなった小田原城の奪取には、早雲の謀略家の顔が覗いている。
伝承によれば、早雲は城主大森藤頼に贈り物を重ねて警戒を解かせ、「箱根で鹿狩りをしたい、勢子の山越えを許されたい」と申し入れた上、勢子に変装させた兵を山中に入れ、千頭の牛の角に松明を括って放ち、大軍の夜襲と見せかけて城を奪ったという。
火牛の計は中国の故事の翻案であり、そのまま史実とは考えにくい。しかし、贈答により警戒の弛緩を誘い、名目を立てた兵力を接近させ、さらには心理的動揺の演出を行う、という骨格は、いかにも早雲的である。伝説は、同時代人が抱いた人物評の結晶なのだ。
相模平定の総仕上げとなった三浦氏との戦いにも触れておこう。
早雲は新井城に立て籠もる三浦一族を、実に三年にもわたって包囲した。力攻めをせず、封鎖と時間で徐々に相手を枯らしていく。その結果、三浦方は最後の突撃で華々しく散り、ついに相模は北条のものとなった。
三年間の包囲費用と、数日の力攻めの損害を天秤にかけ、前者を選ぶ──後の秀吉の兵糧攻めを先取りするこの計算感覚は、家訓で倹約を説いた男の面目躍如であった。
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早雲の子、氏綱は「北条」姓を称し、印判に「禄寿応穏」──民の財産(禄)と生命(寿)はまさに穏やかなるべし──の四字をきざんだ。
当主の印判のない徴発を無効とする印判状制度は、家臣や代官の中間搾取から民を守る仕組みであり、早雲以来の民心調略を制度化したものである。
北条氏はこの後、五代百年にわたって関東に君臨する。
その支配の強靭さは、小田原征伐の際、圧倒的な秀吉軍を前にしても領国内から大規模な内応・一揆がほとんど起きなかったことに示されている。
ただし、皮肉にも、調略で興った家は調略への最強の耐性を持つ家となり、最後は「調略の完成者」秀吉によって、戦闘でも調略でもなく、外交的孤立と圧倒的動因によって幕を下ろされてしまった。
この因縁は本書の終盤で回収しよう。




