伊豆討ち入り──「公認された下剋上」
明応二年(一四九三)、早雲は伊豆へ乱入し、堀越公方足利茶々丸を攻めた。通説で「戦国時代の幕開け」とされてきた事件である。
堀越公方は、幕府が関東統治のために送り込んだ足利氏の分家だが、当主、政知の死後、庶子の茶々丸が継母と異母弟を殺して家督を奪っていた。
ここで京都に目を転じると、同じ明応二年、幕府では管領細川政元がクーデタ(明応の政変)で将軍足利義材を廃し、義澄を新将軍に立てている。
そして義澄の母と弟こそ、茶々丸に殺された継母と異母弟その人である。
つまり早雲の伊豆討ち入りは、新将軍の母弟の仇である茶々丸を、幕府の意を受けて討伐する「公戦」の性格を帯びていた。
早雲はやはり下剋上の実行者でありながら、その行為を幕府公認の秩序回復として演出することに成功したのである。
明応の政変と伊豆討ち入りの連動を重視する近年の学説は、戦国の開幕そのものが、京都の政変と東国の軍事行動を結ぶ調略の産物だったことを示唆している。
軍事的には、伊豆攻略は電撃戦だった。しかし茶々丸の残党狩りも含めた伊豆平定には数年を要した。
この数年間に早雲が行ったのが、冒頭で見た民心の調略である。
効果の仕組みを整理しておこう。
第一に、税を軽くしても、耕作者が増え荒地が開かれれば総収入は保てる。
第二に、民心を得た土地は、敵の調略に対する免疫を持つ。敵が国人を寝返らせても、村々が従わなければ支配は空転する。
第三に、「北条領は税が軽い」という評判そのものが、隣国の民と国人に対する無言の調略となる。進攻する前から、敵国の内部に「北条が来た方がましだ」という空気を醸成できるのだ。




