「素浪人」の正体──実像の書き換え
江戸時代に流布した物語では、早雲は一介の素浪人として駿河に流れ着き、知恵と度胸だけで伊豆・相模を奪った下剋上の元祖とされた。
しかし近年の研究が描く実像は逆である。
伊勢氏は室町幕府の政所執事を代々務めた名門官僚の家系であり、早雲(伊勢新九郎盛時)自身、九代将軍足利義尚の申次衆──将軍への取次を務める側近──を務めたエリートだった。
この出自の読みちがいは、彼の国盗りの意味を根本から変える。早雲の事業は、無名の野心家の腕力ではなく、幕府中枢の力学と文書行政を知り尽くした男による、周到きわまる政治耕作だったのである。
素浪人伝説が生まれたのは、後世の人々が「何者でもない男が国を取る」物語を欲したからだろう。
さて、彼が歴史の表舞台に現れるのは、駿河今川家の家督争いにおいてである。今川義忠が戦死すると(一四七六)、幼い嫡男龍王丸(後の氏親)と、一族の小鹿範満が家督を争った。
龍王丸の母・北川殿は盛時の姉(妹とも)である。
盛時は幕府側の人間として、かつ外戚として調停に乗り出し、いったんは「龍王丸成人までの家督代行」という妥協案で範満を立てて収めた。
だが範満は、龍王丸が成人しても家督を返さない。
長享元年(一四八七)、盛時は再び駿河へ下り、今度は武力で範満を討ち、氏親を当主に据えた。この功で盛時は駿河興国寺城を与えられ、東国に橋頭堡を得る……。
この一連の動きに、早雲の手法の原型がすべて現れている。
第一に、大義名分の確保。彼は常に「正統な後継者を助ける」側に立ち、簒奪者ではなく秩序の回復者として振る舞った。
第二に、時間の使い方。最初の調停から武力解決まで十年待ち、範満の非が誰の目にも明らかになるまで動かなかった。相手に先に約束を破らせてから討つ──第二章で見た「正当化の技術」の実践である。
第三に、中央と地方の接続。幕府官僚としての顔と今川外戚としての顔を使い分け、京都の権威を東国の実力闘争に持ち込んだ。
要するに、大義名分を重んじ、時間をかけて、誰もが納得せざるを得ない調停者として、振るまったのであった。




