人質──情を担保に変える
人質は、戦国の契約実務における最強の担保だった。妻子や母、弟を相手方に預けることで、裏切れば肉親が殺される。証人とも呼ばれ、同盟、臣従、和睦、あらゆる場面で差し出された。
ただし、人質には微妙な等級があった。
最も重いのは嫡男と実母である。次いで正室、弟、娘となり、庶子や傍流の子は軽い担保とみなされた。
誰を出すかは、そのまま誠意の重さの表明であり、逆に軽い人質でお茶を濁すことは、裏切りの余地を残す意思表示と読まれた。
調略の交渉は、しばしばこの人質の等級をめぐる駆け引きだった。
「ご嫡男を」
「いや、次男を」
「では嫡男様に、御母堂を添えて」
担保の交渉と査定は、質屋のそれより厳密である。なにしろ担保の価値が、質草本人の出世や、病気で日々変動するのだから。
また、人質の扱いには、二つの相反する作法があった。
一つは威嚇としての処刑である。裏切りが発生すれば人質は殺される──この原則が貫徹されなければ、担保制度全体の意味がなくなる。
だが、もう一つの用法がある。
それは、厚遇による取り込みである。人質を客分として遇し、教育を与え、婚姻を世話すれば、人質は敵地に育つ味方の苗になる。
松平竹千代──後の徳川家康──が今川家の人質として駿府で養育され、太原雪斎の薫陶を受けたとされることは、あまりにも有名だが、人質制度が単なる拘束ではなく、人材養成と縁組の起点でもあったことを示している。
そして本書の後段で見るように、人質の論理を極限まで使い切ったのが秀吉である。小牧・長久手の後、家康を上洛させるために、妹を正室として送り、さらに実母大政所までをも人質として岡崎へ下した。
天下人が自分の母を担保に差し出す──前代未聞であり、一つ間違えば不孝な男とも捉えられかねない。人質という道具の歴史において、これほど大胆な使用例はなかつた。




