起請文──神仏が保証人
起請文の運用の実態を見てみよう。
現代人からすると、紙切れなど形式的儀礼と見がちだが、実は当時の効力には侮れないものがあった。
第一に、神罰への恐怖はたしかに実在した。起請文を破った者が病を得れば、人々はそれを神罰と噂し、本人もそう疑った。
中世には、起請文を書いた後に数日間、体調や周囲の異変を観察して神意を確かめる「起請を果たす」という慣行すらあった。鼻血が出ただけで呪いが発動したと思われて、進退が決まることもあったというから、誓約の直後は皆、慎重に暮らしたに違いない。
第二に、社会的信用のバロメーターでもあった。起請文を乱発して破る者は「誓紙の効かない男」として、結局は以後の取引コストが跳ね上がることになる。調略の世界にも信用格付けがあったのである。
ところで、上田市の生島足島神社には、永禄九〜十年(一五六六〜六七)ごろ、武田信玄が家臣たちに一斉に提出させたという起請文が、八十通あまりも今日まで伝わっている(下之郷起請文)。
内容は、信玄への忠誠、逆心を抱かぬこと、他国との内通をせぬことなどの誓約である。
ただし、時期に注目したい。ちょうど嫡男義信の廃嫡事件(第十章)の直後、家中に動揺が走っていた頃なのた。
つまりこれは、家臣団全員が差し出した、忠誠の誓約書であった。主従いずれの発案かは定かでないが、謀叛しない、あるいはさせないための契約書だったのだ。
そして、一枚一枚に家臣の名と血判が並ぶこの文書群は、「調略への防御もまた紙で行われた」ことの、これ以上ない物証である。神社が四百五十年間これを保管し続けてくれたおかげで、われわれは戦国の防諜システムを現物で見ることができる。
しかし同時に、起請文の限界も広く知られていた。
松永久秀にについて思い出してみよう。
「あの男の誓紙は反故と思え」といった風評が立ったのは、当時も破る者は破った、という証拠だ。
ゆえに実務家たちは、起請文を単独では使わなかった。誓紙はあくまで契約書であり、履行の担保には別の装置──人質──を重ねるのが常道だったのである。




