山城国一揆と「百姓ノ持タル国」
下剋上の時代は、武士だけの現象ではなかった。その極点を示す二つの事件を見よう。
一つは山城国一揆である。
文明十七年(一四八五)、南山城では、畠山家の家督争いの当事者・畠山政長と義就の両軍が対陣を続け、田畑を荒らし、通行を妨げ、住民から兵糧を徴発し続けていた。
十二月、南山城の国人と農民たちは宇治の平等院に集会し、決議した。
──両畠山軍は国外へ退去せよ。寺社本所領は元に戻せ。新関(通行税の関所)は撤廃する──。
驚くべきことに、両軍はこの要求に従って撤兵した。
以後約八年、南山城は「三十六人衆」と呼ばれる国人の月行事(輪番制の執行部)による自治を実現する。
なんと、二大勢力の軍隊を、住民の集会決議が退去させたのである。戦国の幕開けの時期に、日本のどこかで、このような政治が可能だったことは、記憶されてよいと思う。
もう一つが、加賀の一向一揆である。
長享二年(一四八八)、浄土真宗本願寺派の門徒が結集した一揆は、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させ、以後およそ百年、加賀は門徒の支配国となった。
この事態を、本願寺と対立する立場の記録は、
「百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候」
と、まるで百姓の持っている国のようになってしまった、と書き残している(『実悟記拾遺』)。
まさに、書き手の当惑がにじむ名文である。守護が民衆の連合に倒されるという事件は、下剋上の極限形態として全国の支配層を震撼させた。
これらの背景には、畿内近国で発達した自治村落「惣村」の成熟がある。
灌漑や自衛のために結合した惣村は、年貢の減免を求めて荘園領主と交渉し、要求が通らなければ耕作放棄(逃散)や実力行使(強訴)に訴えた。
また、土一揆は徳政令──借金帳消し──を求めて京都を包囲し、正長元年(一四二八)の土一揆以来、幕府にたびたび法令を出させた。
交渉と実力行使を使い分けて上位権力から譲歩を引き出すこの行動様式は、民衆版の調略と言っていいだろう。武士が国人一揆で学んだことを、百姓は惣村と土一揆で学んでいた。
列島全体が、階層を問わず「連合と交渉の学校」に通っていたのである。
ところで、一向一揆の強さの秘密は、信仰による結合が、国人一揆の盟約よりもはるかに裏切りに強かったからである。所領安堵で動く武士は調略で切り崩せるが、往生を信じて死を恐れぬ門徒は買収が効かない。
後に信長が本願寺と十年戦い、秀吉ですら宗教勢力の扱いに細心の注意を払ったのは、彼らが「調略の効かない敵」であり、その恐ろしさを嫌と言うほど、知っていたからである。




