中国方面軍という難題
天正五年(一五七七)、秀吉は播磨方面の司令官として中国戦線に投入された。
この時、与えられた課題の難度を確認しておこう。
相手は毛利。元就が両川体制と婚姻網で編み上げた、調略耐性において戦国最強の家である)。そして、戦場は播磨・但馬・備前・美作──毛利と織田の勢力圏の境界に、小領主がモザイク状に並ぶ調略の激戦区である。しかも織田本国は本願寺戦の最中で、投入兵力は限られる。
武力の不足を調略で補う以外に、方針はあり得なかった。
対して、秀吉の初動は鮮やかだった。播磨入りした秀吉は、姫路の小寺(黒田)官兵衛の献策と斡旋を得て、播磨国人の人質を集めて信長へ送り、数ヶ月でほぼ播磨全域を帰順させる。
官兵衛は居城の姫路城をあっさりと秀吉に献上し、自身は参謀として仕えた。半兵衛に続き、また一人、他家の知恵者が秀吉を選んだのである。
だが調略の激戦区は、逆流も速い。
天正六年、東播磨の最大勢力・三木城の別所長治が突如離反して毛利方につき、播磨国人の過半がこれに連鎖した。
さらに同年、上月城をめぐる攻防では、毛利の大軍(吉川・小早川)の前に、秀吉は救援を断念して尼子再興軍、すなわち山中幸盛らを見殺しにする苦渋の撤退を強いられ、その後、あろうことか信長の方面軍司令官である摂津の荒木村重が叛いてしまう。
天正六年の秀吉は、調略合戦で毛利に押し込まれる側であった。恵瓊と毛利の外交網は、播磨・摂津の国人と本願寺・雑賀を束ね、織田の中国戦線を一時、崩壊寸前まで追い込んだのである。
名門の調略力は健在だった。




