京からの報告書
天正元年(一五七三)十二月、京都からの帰路。毛利家の外交僧・安国寺恵瓊は、宿所の灯りの下で、国元への報告書をしたためている。
この年、京都では激動が続いた。
将軍義昭が信長に叛して敗れ、京都を追われた。恵瓊は毛利方の使者として、信長側(交渉窓口は羽柴秀吉)と、義昭の間の調停に奔走し、その課程で、天下の新しい主役たちを間近に観察してきた。
筆が走る。情勢の報告、交渉の経過。そして恵瓊は、預言めいた人物評を書き付けた。原文の趣旨を掲げる。
──信長の代は、五年、三年は持つでしょう。来年あたりは高い官位の公家にもおなりでしょう。しかしその後、高ころびに、あおのけに転ばれるように見受けます。藤吉郎(秀吉)は、さりとては(なかなか大した)の者にて候──。
本能寺の変の九年前である。
信長の急激な上昇と転落を予言し、当時まだ織田家の一部将にすぎない秀吉を名指しで評価したこの書状は、外交僧という職能(第十三章)の情報力と、観察眼の到達点を示していよう。
恵瓊は安芸武田氏の遺児として寺に入り、東福寺で学んだ禅僧で、毛利の対織田・対中央外交の実務を一手に担っていた。
敵陣営の交渉窓口が、誰よりも早く秀吉の器を見抜いていた。この事実は、以後の中国戦線の帰趨に、決定的な影を落とす。
調略とは相手の値踏みの技術であり、値踏みの専門家同士は、敵味方であっても、ある種の相互理解に達するからである。
秀吉と恵瓊。この二人の敵対と共犯の関係は、備中高松の和睦で歴史を動かし、恵瓊の毛利家中での立身、そして関ヶ原の悲劇まで続いてゆく、本書後半の隠れた主旋律である。




