↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国時代と調略の歴史 ~天才秀吉の無双~  作者: 泰 然
第二十章 明智光秀──丹波調略と本能寺への道
PR
113/168

完璧な戦術、空白の戦略

 六月二日未明、ついに光秀軍は桂川を渡り、本能寺を包囲した。


 信長は弓を放ち、弦が切れた後も槍をふるって自ら戦った後、傷を負って炎の中で自害した。


 信忠も二条御新造(にじょうごしんぞう)で討死した。当主と後継者の同時抹殺──戦術としての本能寺は完璧だった。第十五章で見た「敵の意思決定中枢の除去」を、光秀は史上最も純粋な形で実行したのである。


 だが、その後の光秀の動きには、本書がここまで描いてきた「調略の準備」が、ほとんど見当たらないのである。


 事前の多数派工作の形跡が現存史料の限りでは見当たらず、姻戚であり最大の頼みでもある細川藤孝(ほそかわふじたか)・忠興父子への協力要請は変の後に発せられ、そして拒絶された。


 六月九日付で光秀が細川父子に送った覚書が現存する。趣旨は悲痛である。


「御父子が髻(もとどり)を払われた(剃髪して弔意を示した)こと、もっともとは思うが、無念である。この上は、摂津を進上するので出陣されたい。但馬・若狭でも御望み次第である。五十日、百日のうちには近国を固め、その後は(忠興らに)引き渡す。」


 天下を取った(はずの)男が、娘婿の家に、国を差し上げるから味方してくれと懇願している。筒井順慶(つついじゅんけい)も日和見の末、結局は動かなかった。大義名分の物語──「なぜ信長を討ったか」──は、ついに天下を納得させる形で発信されなかった。


 丹波で五年、内応と安堵の網を編み続けた調略の名手が、生涯最大の勝負でだけ、いっさいの調略を欠いた。


 合理的な説明は二つしかない。


1.決行が好機への即応であり、準備の時間が物理的になかった。

2.秘匿を最優先し、事前工作は漏洩と同義と判断した。


 おそらくは両方だろう。だがいずれにせよ、この選択は「謀反の成功」と「政権の樹立」が別の事業であることを残酷に示している。首謀者の頭の中にしかない政権構想は、首謀者の敗死とともに消える。


 さて、光秀の敗因は、山崎の合戦(六月十三日)の用兵ではない。その前の十一日間の調略合戦、すなわち、この大義名分・時間・情報のすべてで後手に回った十一日間がすべてであり、彼はこの時点ですでに敗れていた。


 対抗者・羽柴秀吉の動きは第二十五章で詳述する。敗走の途上、光秀は小栗栖(おぐるす)で土民に討たれたと伝えられる。丹波の名調略家である光秀に、調略の女神は微笑まなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。