完璧な戦術、空白の戦略
六月二日未明、ついに光秀軍は桂川を渡り、本能寺を包囲した。
信長は弓を放ち、弦が切れた後も槍をふるって自ら戦った後、傷を負って炎の中で自害した。
信忠も二条御新造で討死した。当主と後継者の同時抹殺──戦術としての本能寺は完璧だった。第十五章で見た「敵の意思決定中枢の除去」を、光秀は史上最も純粋な形で実行したのである。
だが、その後の光秀の動きには、本書がここまで描いてきた「調略の準備」が、ほとんど見当たらないのである。
事前の多数派工作の形跡が現存史料の限りでは見当たらず、姻戚であり最大の頼みでもある細川藤孝・忠興父子への協力要請は変の後に発せられ、そして拒絶された。
六月九日付で光秀が細川父子に送った覚書が現存する。趣旨は悲痛である。
「御父子が髻を払われた(剃髪して弔意を示した)こと、もっともとは思うが、無念である。この上は、摂津を進上するので出陣されたい。但馬・若狭でも御望み次第である。五十日、百日のうちには近国を固め、その後は(忠興らに)引き渡す。」
天下を取った(はずの)男が、娘婿の家に、国を差し上げるから味方してくれと懇願している。筒井順慶も日和見の末、結局は動かなかった。大義名分の物語──「なぜ信長を討ったか」──は、ついに天下を納得させる形で発信されなかった。
丹波で五年、内応と安堵の網を編み続けた調略の名手が、生涯最大の勝負でだけ、いっさいの調略を欠いた。
合理的な説明は二つしかない。
1.決行が好機への即応であり、準備の時間が物理的になかった。
2.秘匿を最優先し、事前工作は漏洩と同義と判断した。
おそらくは両方だろう。だがいずれにせよ、この選択は「謀反の成功」と「政権の樹立」が別の事業であることを残酷に示している。首謀者の頭の中にしかない政権構想は、首謀者の敗死とともに消える。
さて、光秀の敗因は、山崎の合戦(六月十三日)の用兵ではない。その前の十一日間の調略合戦、すなわち、この大義名分・時間・情報のすべてで後手に回った十一日間がすべてであり、彼はこの時点ですでに敗れていた。
対抗者・羽柴秀吉の動きは第二十五章で詳述する。敗走の途上、光秀は小栗栖で土民に討たれたと伝えられる。丹波の名調略家である光秀に、調略の女神は微笑まなかった。




