謀反の動機――石谷家文書と四国問題
本能寺の変の動機については、怨恨説、野望説、各種黒幕説と、諸説が林立してきた。
近年、議論の地図を塗り替えたのが、平成二十六年(二〇一四)に紹介された「石谷家文書」である。
石谷頼辰は光秀の重臣・斎藤利三の実兄で、その義妹は四国の長宗我部元親の正室──つまり明智家中と長宗我部家は、姻戚の回路で直結していた。
文書群には、変の直前、天正十年五月二十一日付の元親書状が含まれる。趣旨はこうだ──甲州征伐の首尾、めでたく存じます。(信長の命じる)四国からの撤退要求について、いくつかの城は破却し退去します。ただし一部の城は、国の平定のためやむを得ず確保していますが、これは決して信長様に背く意図ではありません。よろしく取りなしを──。
背景を補う。
光秀は長宗我部氏との取次であり、元親の四国切り取りを容認する路線を仲介してきた。
ところが信長は天正九年頃から方針を転換し、三好(十河)側に肩入れして四国征伐を決定する。石谷家文書の元親書状は、追い詰められた元親が、変のわずか十日前、明智ルートを通じて必死の妥協を図っていたことを示す。
取次とは、相手方への「保証人」である(第四章)。保証が反故になるとき、取次は主君と相手方の双方から信を失う。しかも四国征伐軍の渡海予定日は、六月二日──本能寺の変、当日であった!
この符合をどこまで重く見るかは研究者の間でも分かれるが、四国問題が変の重要な文脈であることは、いまや有力な見方となっている。
勝算の側も確認しておく。六月一日の盤面は、謀反にとって空前の好機だった。信長は本能寺に小姓衆のみで宿泊し、嫡男信忠も妙覚寺に少数で在京。柴田は北陸、羽柴は備中、滝川は関東、四国方面軍は渡海準備中──織田の全野戦軍が畿内から出払っており、光秀の一万三千だけが京都至近に武装集結していた。前章の公式に当てはめれば、「不満(処遇不安と取次の破産)×勝算(空前の隙)」の積は、この夜、最大値に達していたのである。




