調略の名手としての光秀
明智光秀は、本能寺の変の実行者としてのみ記憶されがちだが、織田家中における彼の本業は、調略と統治の名手である。
出自は美濃土岐氏の支流と自称する牢人であり、越前で朝倉に寄寓した後、足利義昭と信長の双方に仕える「両属」の取次として頭角を現した。
将軍と信長の間の橋──それは畿内政治の全情報が通過する結節点であり、光秀は幕府儀礼・朝廷交渉・寺社対策に通じた、織田家中でも例外的な教養人・実務家だった。
その光秀の代表作が、五年に及ぶ丹波攻略(天正三〜七年)である。
丹波は京都の背後に位置する山国で、赤井直正・波多野秀治ら在地国人が割拠していた。
光秀の攻略手順は、本書の読者にはおなじみの型である。国人の系譜と係争の調査、内応の勧誘と本領安堵、応じない者への包囲戦、支城網の各個切り崩し。
緒戦(黒井城の戦い)では、いったん帰順した波多野氏の突然の離反で挟撃され、光秀は命からがら敗走している。それでも方針を変えず、亀山城・周山城など拠点を築いて兵站を固め、八上城の波多野氏を一年半の兵糧攻めで降し、黒井城を落として丹波を平定した。
信長は光秀の丹波・丹後平定の功を「天下の面目をほどこし候」と最大級の言葉で賞している。
あの折檻状(前章)で佐久間を罵倒した同じ筆が、光秀を絶賛している──成果主義の頂点に、この時の光秀は立っていた。




