↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国時代と調略の歴史 ~天才秀吉の無双~  作者: 泰 然
第二十章 明智光秀──丹波調略と本能寺への道
PR
111/168

調略の名手としての光秀

 明智光秀は、本能寺の変の実行者としてのみ記憶されがちだが、織田家中における彼の本業は、調略と統治の名手である。


 出自は美濃土岐氏の支流と自称する牢人であり、越前で朝倉に寄寓した後、足利義昭と信長の双方に仕える「両属」の取次として頭角を現した。


 将軍と信長の間の橋──それは畿内政治の全情報が通過する結節点であり、光秀は幕府儀礼・朝廷交渉・寺社対策に通じた、織田家中でも例外的な教養人・実務家だった。


 その光秀の代表作が、五年に及ぶ丹波攻略(天正三〜七年)である。


 丹波は京都の背後に位置する山国で、赤井直正・波多野秀治ら在地国人が割拠していた。


 光秀の攻略手順は、本書の読者にはおなじみの型である。国人の系譜と係争の調査、内応の勧誘と本領安堵、応じない者への包囲戦、支城網の各個切り崩し。


 緒戦(黒井城(くろいじょう)の戦い)では、いったん帰順した波多野氏の突然の離反で挟撃され、光秀は命からがら敗走している。それでも方針を変えず、亀山城・周山城(しゅうざんじょう)など拠点を築いて兵站を固め、八上城(やかみじょう)の波多野氏を一年半の兵糧攻めで降し、黒井城を落として丹波を平定した。


 信長は光秀の丹波・丹後平定の功を「天下の面目をほどこし候」と最大級の言葉で賞している。


 あの折檻状(前章)で佐久間を罵倒した同じ筆が、光秀を絶賛している──成果主義の頂点に、この時の光秀は立っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。