愛宕山の連歌
天正十年(一五八二)五月二十八日(二十四日とも)、京都西北の愛宕山。
中国出陣を目前に控えた明智光秀は、この山に登って参籠し、太郎坊の社前で御籤を引き、しかし「大凶」が出たために、二度も、三度も引いたと『信長公記』は伝える。
翌日、山上の西坊で連歌の会が催された。
同座するのは、当代一の連歌師・里村紹巴ら九名。
光秀が詠んだ発句が、日本文学史上もっとも有名な五七五の一つとなる。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
その意味は、「時は今、雨の降りしきる五月であることよ」である。
しかし、「とき」は光秀の出自・土岐氏に、「あめが下しる」は「天が下知る(治る)」──天下を治める──に掛かる、というのが古来の読みである。すなわち土岐氏の裔たるわれ、今こそ天下を──となり、謀反の決意を秘めた句、と読める。
本当にそうか。
連歌の掛詞は座の文芸の常であり、土岐と時の掛けも歌語の伝統に属する。この句を「決意表明」と読む解釈は、変の結果を知る後世の目が育てたものかもしれない。あるいは、句の文言が後に改変されたとの指摘もあるのである。
だが本書にとって興味深いのは、句の真意よりも、この場の構図である。
挙兵のわずか四日前(一説によると八日前)、首謀者は当代最高の文化人たちと歌を巻いていた。
同座の紹巴は、変の後、光秀との連座を疑われて厳しい詮議を受けることになる。連歌師は歩く通信社であり(第十三章)、大名の座敷は情報の交差点である。
光秀ほどの男が、それを知らぬはずはない。ならば、この連歌会は、無防備な風雅か、周到な平常心の偽装か──。愛宕百韻は、四百年後のわれわれにも、光秀の内心を見せてくれない。
この「見えなさ」こそ、本能寺という事件の本質である。




