荒木村重 小括──裏切りの生産構造
本章の教訓を整理する。
第一に、成果主義の組織は、抜擢の裏で「処分への恐怖」を量産し、それが敵の調略の接続端子になる。
第二に、大領委任型の方面軍制は、司令官に「独立の能力」を与えてしまう。裏切りの意思と能力のうち、能力の側を組織自身が育てるのである。
第三に、謀反は「不満×勝算」の積で発火する。防諜は不満の管理と勝算の破壊の両輪を要する。
信長はこの構造問題を、最後まで制度的には解決できなかった。解決の代わりに彼が頼ったのは、――勝ち続ける限り、外部の勝算は生まれず、謀反は割に合わない――という、自身の急速な成功そのものだった。
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天正十年(一五八二)、武田家が滅び、毛利は追い詰められ、上杉は風前の灯だった。勝算の芽は、列島のどこにも見えなかったはずだ。だが謀反は、最も勝算のないはずの場所──京都本能寺、最も信頼された方面司令官の陣中で発火する。
次章、明智光秀である。
以下は有名かつ、僕の大好きなエピソードです。
有岡城の惨劇には、実は日本美術史につながる、なんとも不思議な後日譚があります。処刑を免れた村重の遺児の一人が、乳母の手で救い出され、母方の姓を名乗って育ちました。その子こそ、岩佐又兵衛。のちに「浮世絵の源流」とまで評される、江戸初期の異才の絵師なんですよね。
そして、この又兵衛の絵がまた凄い。
代表作とされる「山中常盤物語絵巻」などを見ると、まず極彩色でとにかく華やかです。ところが描かれているものは、華やかどころの話ではありません。斬られる人間の表情、噴き出す血、切断された身体──殺戮場面が妙に生々しく、しかも執拗なんです。いくら戦国時代だからといって、そこまで克明に描かなくてもいいでしょう(笑)。
このため研究者の中には、又兵衛の暴力描写の奥に、一族を虐殺された幼児期の記憶があるのではないか、と見る人もいます。もちろん本人がそう語った記録があるわけではなく、実証はできません。ただ、その生い立ちを知ってから絵を見ると、どうしても何かを感じてしまいます。
そして面白いのは、その後です。戦国最悪級の粛清を生き残った子供が、刀ではなく筆を持って近世の画壇に立ち、その作品が四百年以上たった今日、重要文化財として美術館に飾られている。一方の父・荒木村重は、城も家族も失いながら生き延び、最後は茶人として人生を終えました。父は武将を捨てて茶人となり、子は虐殺を生き延びて絵師となった。
荒木家の父子は、戦国という「武」の世界から弾き出されながら、二代続けて「文化」の世界で生き直したわけです。歴史というのは、これだからやめられません(笑)
- 『信長公記』──村重謀反・有岡城攻め・処刑の記事
- 佐久間信盛宛十九ヶ条折檻状(『信長文書の研究』奥野高広、所収)──成果主義組織の内実
- 天野忠幸『荒木村重』(戎光祥出版)──謀反の背景に関する近年の整理
- 諏訪勝則『黒田官兵衛』(中公新書)──幽閉事件と松寿丸救出の検証
- ルイス・フロイス『日本史』──高山右近の帰順と宣教師の仲介
- 辻惟雄『岩佐又兵衛』ほか──又兵衛と有岡城落城の伝承をめぐる美術史研究




