有岡城の結末──城主だけが逃げた城
荒木の居城である有岡城攻めは一年に及んだ。
毛利、播磨一帯に戦闘を抱えていた信長は力攻めを避け、周囲に付城を築いて封鎖し、並行して城内の切り崩しを進めた。
中川清秀・高山右近ら摂津の与力衆は早期に織田方へ転じた。中でも、キリシタンである右近の帰順には、宣教師を仲介に立てるという、実に信長らしい「相手の信仰回路を使う」説得が行われた。
転機は天正七年九月、村重が少数の側近と有岡城を脱出し、嫡男の守る尼崎城へ移ったことである。指揮官の離脱で、城内の士気は崩壊し、十一月、有岡城は開城した。
この時の信長の処断は苛烈を極めた。
村重一族と重臣の家族数十人をわざわざ京都に連れていき、大衆の面前で処刑し、婦女子を含む従属民数百人を焼殺した。
それでも、妻子を見捨てて逃げた村重は、毛利領へ落ち延びて生き残り、後年、剃髪して道糞と号し(のち道薫)、茶人として秀吉の茶会に列している。
城と一族を失った裏切り者が、文化人として赦されて余生を送る──この結末は、裏切りの代価は一族にも及ぶという信長の見せしめの論理と、有用な者は過去を問わず取り込むという秀吉政権の論理の対照として、記憶しておいてよいだろう。もっとも、この顛末の場合は、秀吉の側には信長とは違うという度量を示したい承認欲求があったためであろう。
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さて、第十四章で描いた松永久秀の二度目の離反(天正五年)についても、ここで包囲網の文脈に置き直しておこう。
松永久秀が叛いた天正五年秋は、手取川で柴田軍が敗れた結果、上杉謙信が北陸を西進し、本願寺がいまだ健在で、毛利が西からも圧をかけるという、信長包囲網最後の高揚期だった。
すなわち、久秀の計算は、村重の一年前に、同じ盤面を読んでいたことになろう。ところが謙信は翌年三月に急死し、盤面は崩れた――。
村重と久秀、二つの謀反は同じ教訓を指している。方面司令官の離反は、本人の不満だけでは起きるのではなく、「外部の勝算」の見積もりと結びついたとき、初めて発火する。謀反は「不満×勝算」の積で発火するのである──本書はこれを、次章の本能寺に適用することになる。




