実力主義の裏面──恐怖で駆動する組織
村重は、池田家の一家臣から身を起こし、主家の内紛を制して摂津の支配権を握り、信長に取り立てられた成り上がりである。
その男の謀反の動機は、実は今も確定していない。
有力な仮説を並べれば、
1.対本願寺戦線の最前線で、家中の門徒的基盤(摂津は一向宗の地盤である)との板挟みになった
2.部下の兵糧横流し疑惑など、信長への釈明が立たない失点を抱えた
3.同僚との競争と讒言への恐怖
4.毛利・本願寺側の勝算見積もりに賭けた
──など。おそらく単因ではないと推量されている。重要なのは、これらすべてが「信長の組織の構造」から生えている点である。
その構造を、一通の文書が証言している。
天正八年(一五八〇)、信長が譜代筆頭格の宿老・佐久間信盛父子に突きつけた、十九ヶ条の折檻状である。
条文の趣旨を拾おう。
──天王寺(対本願寺戦線)に在陣すること五ヶ年、その間、格別の働きは何一つない。世間の不審、われながらの無念、言葉にならない。丹波の光秀の働き、播磨の秀吉の数ヶ国の平定、これに比べてお前はどうか。武篇(武功)がだめなら調略でも、それもせぬなら金銀を使って人を抱えるでもよかったはずだ。心当たりがあるなら、どこぞの敵を討ち果たして帰参するか、さもなくば頭を丸めて高野山へでも上るがよい。
三十年仕えた宿老が、この一通で追放された。
このとき林秀貞ら他の古参も、遠い過去の咎まで持ち出されて追われた。折檻状の中で信長が、諸将の「成果」を横並びで比較し、しかも「調略でもよかった」と、寝返り工作を人事評価の正規項目として挙げていることに注目してほしい。
織田家は、日本史上最初の、徹底した成果主義組織だった。そして成果主義の組織では、忠誠は「これまでの奉公」ではなく「これからの有用性」で測られる。ということは、大きな失点を抱えた者、讒言に晒された者は、挽回の機会を信じられなければ、「処分される前に離反する」計算に傾くことになる。
村重の乱も、後の光秀の変も、この計算構造の中で読める。
調略とは敵の家臣の不安に出口を示す技術だと本書は繰り返してきたが、信長の組織は、その不安を自家の内部で大量生産していた。毛利・本願寺側から見れば、織田の方面司令官たちは、常に「調略可能な状態」に置かれていたのである。事実、村重謀叛の裏には本願寺・毛利からの働きかけが確認されている。




