光秀 小括──第三部を閉じる
光秀の悲劇は、本書の枠組みでは次のように要約できる。
不満×勝算という、謀反の発火条件は満たされていた。そして、中枢の除去という戦術もは完璧だった。だが、政権の樹立に必要な三点、すなわち
1.大義名分の物語
2.事前の多数派工作
3.勝報を先に届ける情報速度
のすべてを欠いてた。そしてこの三点をすべて備えていた男が、備中から二百キロを駆け戻ってくる。
第三部を総括しよう。
信長は、調略を組織の標準工程に組み込み(美濃)、権威を調達し(義昭・朝廷)、調略の効かない敵には殲滅と封鎖で応じ(本願寺)、裏切りには見せしめで応じた(浅井・荒木)。
だが彼の成果主義と方面軍制は、裏切りの意志と能力を組織内部で再生産し続け、最後は自らが作った拡張構造の隙間で斃れた。力と調略の均衡の上に立った天下人は、均衡の一瞬の崩れに呑まれたのである。
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次はいよいよ第四部、本書のクライマックスである。
藁履き取りから身を起こし、美濃で調略を学び、江北で敵家臣団の解体を実地訓練し、中国で毛利という調略の名門と知恵比べを演じてきた男が、主君横死の報を受け取る。
その名も羽柴秀吉、四十代半ば。ここから彼が見せる八年間は、日本史上、一人の人間が調略という技術で到達した最高地点の記録である。
本能寺の変といえば、この台詞でしょう。
「敵は本能寺にあり!」
それにしても、この名文句は、同時代の史料のどこにも見えないんですよね。出典は、変から二百数十年後の江戸後期の儒学者・頼山陽が詠んだ漢詩「本能寺」からになります。
──吾が敵は正に本能寺に在り──。この山陽の詩業は幕末の志士たちにも愛誦されましたし、その結果、この一句は光秀本人の言葉としていまや全国民的に定着したわけです。いやもう、お見事!(笑)
『信長公記』という公式記録が伝える実際の光秀といえば、進路について家臣にすら直前まで真意を明かさなかったとされています。これは本文のでも触れましたが、考えてみれば当然で、仮に毛利へ向かうはずの一万三千の兵に、「これから主君を討ちまーす」と宣言して桂川を渡れば、いや、宣言しなくても京都に向かえば、これはもう注進の早馬があちこちに駆け出し、そのうちのいくつかは本能寺に先着してしまうかもしれません。
というわけで、名調略家の最後の作戦は、音に聞こえた名台詞とは正反対の、徹底した無言によって支えられていたのですね。
歴史の決定的瞬間に恰好いい台詞を求めるのは、いつの世も後世の観客の方です。とはいえ、二百年後の詩人に人生最高の台詞を書いてもらえたのだから、文化人たる光秀としては、まあ本望なのには違いありませんね(笑)。
- 石谷家文書(林原美術館蔵)──長宗我部元親書状ほか、四国問題の新史料(浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』)
- 光秀の細川藤孝・忠興宛覚書(六月九日付、細川家伝来)──変後の懇願の実物
- 『信長公記』──本能寺の変の経過、愛宕参籠の記事
- 愛宕百韻──「ときは今」の句と改変をめぐる議論(連歌史研究)
- 諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館)──実証的な光秀伝
- 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)──黒幕説の批判的整理
- 頼山陽「本能寺」──「敵は本能寺に在り」の出典(江戸後期の漢詩)




