解体の手順と、講和という出口
包囲網を、信長は三つの方法で各個撃破、解体していく。
第一に、時間差の利用。三方ヶ原の絶体絶命から、信玄の病没(天正元年)を確認するや、七月に義昭を追放、八月に朝倉を滅ぼし、返す刀で浅井を潰した。網の結び目は、一つ切れると連鎖して緩む。信長は緩んだ瞬間の集中投入を、生涯で最も鮮やかに実行した。
第二に、経済封鎖と孤立化。天正四年の木津川口海戦で毛利水軍に大敗すると、信長は九鬼嘉隆に大型の鉄甲船を建造させ、天正六年の第二次木津川口で毛利水軍を破って海上封鎖を完成させた。同時に、紀州雑賀衆──本願寺の主戦力たる鉄砲傭兵集団──への攻撃と切り崩しで、傭兵の供給を細らせた。
そして最後は調略と講和である。
天正八年、天皇の勅使を立てた講和交渉の末、顕如は石山を退去した。このとき本願寺内部は、講和受諾派(顕如)と抗戦継続派(長男の教如)に割れ、教如はしばらく石山に籠もり続けた。
調略の効かなかった鉄の教団も、講和という出口が開いた瞬間、内部に「出口をめぐる路線対立」という亀裂を生じたのである。亀裂さえ生まれれば、調略は再び技能する。
この父子の亀裂に、後年家康が手を差し込み、やがて本願寺は東西に分立することになる。今日、京都駅前に東西二つの本願寺が並び立つ風景は、四百年前の講和会議の議事録の、いわば立体版なのである。




