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戦国時代と調略の歴史 ~天才秀吉の無双~  作者: 泰 然
第十八章 石山本願寺との十年戦争──宗教と調略
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囲網の設計者たち──義昭という中枢

 石山合戦は、単独の戦争ではない。元亀年間、信長は、浅井・朝倉、本願寺と伊勢長島、比叡山延暦寺、三好残党、松永、武田信玄、そして毛利へと連なる多正面の敵に囲まれた。世に言う信長包囲網である。


 この網の編み手として近年重視されるのが、将軍足利義昭その人である。


 義昭は信長に擁立された将軍でありながら、信長の統制(殿中御掟(でんちゅうおんおきて)や十七ヶ条の異見書による束縛)に反発し、御内書──将軍の私的書状──を全国の大名に乱発して反信長連合を組織した。


 将軍位は、軍事力を一兵も持たずに、諸大名の参戦名分を製造できる唯一の装置である。義昭は、権威という無形資産だけで史上最大級の同盟網を編んだ、ある意味で戦国屈指の調略者だった。兵を持たない男が、日本中の兵を動かした──皮肉なことに、義昭の将軍としての最高傑作は、自分を将軍にしてくれた男への包囲網だったのである。


 信長の対応は、権威には権威を、である。


 信長は朝廷を動かし、勅命による講和を繰り返し引き出した。浅井・朝倉との一時講和(元亀元年末)、そして最終盤、本願寺との講和(天正八年)も正親町天皇の勅命講和の形式をとった。


 将軍の御内書に対して天皇の綸旨(りんじ)・勅命をぶつける──包囲網戦争は、武力戦であると同時に、日本列島に二つしかない伝統的権威の調達合戦だった。


 義昭を京都から追放した後(天正元年)も、信長は義昭を殺さず、将軍位の剥奪もしなかった。いや、できなかった。


 義昭は備後の鞆(とも)に亡命政権を構え、毛利の庇護下で、反信長名分の発行を続けた。


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