囲網の設計者たち──義昭という中枢
石山合戦は、単独の戦争ではない。元亀年間、信長は、浅井・朝倉、本願寺と伊勢長島、比叡山延暦寺、三好残党、松永、武田信玄、そして毛利へと連なる多正面の敵に囲まれた。世に言う信長包囲網である。
この網の編み手として近年重視されるのが、将軍足利義昭その人である。
義昭は信長に擁立された将軍でありながら、信長の統制(殿中御掟や十七ヶ条の異見書による束縛)に反発し、御内書──将軍の私的書状──を全国の大名に乱発して反信長連合を組織した。
将軍位は、軍事力を一兵も持たずに、諸大名の参戦名分を製造できる唯一の装置である。義昭は、権威という無形資産だけで史上最大級の同盟網を編んだ、ある意味で戦国屈指の調略者だった。兵を持たない男が、日本中の兵を動かした──皮肉なことに、義昭の将軍としての最高傑作は、自分を将軍にしてくれた男への包囲網だったのである。
信長の対応は、権威には権威を、である。
信長は朝廷を動かし、勅命による講和を繰り返し引き出した。浅井・朝倉との一時講和(元亀元年末)、そして最終盤、本願寺との講和(天正八年)も正親町天皇の勅命講和の形式をとった。
将軍の御内書に対して天皇の綸旨・勅命をぶつける──包囲網戦争は、武力戦であると同時に、日本列島に二つしかない伝統的権威の調達合戦だった。
義昭を京都から追放した後(天正元年)も、信長は義昭を殺さず、将軍位の剥奪もしなかった。いや、できなかった。
義昭は備後の鞆に亡命政権を構え、毛利の庇護下で、反信長名分の発行を続けた。




