殲滅という「反調略」──長島と越前
ならば、調略が効かない敵に、信長がどう応じたか。答えは、戦国の戦争慣行を逸脱する殲滅戦だった。
伊勢長島の一向一揆に対して、信長は三度の大攻勢の末(天正二年)、輪中に籠もる二万人を柵で囲い、焼き殺したと『信長公記』自身が記録する。降伏を申し出た者が退去するところを攻撃し、激発した一揆側の決死の逆襲で織田一門にも多数の戦死者が出た。
越前一向一揆の平定(天正三年)でも、数万人規模の殺戮と、生存者の他国への強制連行が行われた。信長自身が「府中の町は死骸ばかりにて一円空き所なく候」と書状に記している。町が死骸で埋まった、と戦果報告に書く──この筆致の平静さが、事態の異常さを何より物語る。
この凄惨さを、信長個人の残虐性に還元する説明は、本書の立場からは不十分である。
むしろこう整理すべきだろう。調略とは、敵の構成員に「離脱と転向の出口」を提示する技術である。信長の殲滅戦は、その裏返し──「この戦いには転向の出口がない」ことを示すことで、信仰の結束を恐怖で上書きしようとする、いわば反調略の戦略だった。
根切り(ねぎり)であり、皆殺しの公示は、以後の一揆的抵抗の意思をくじくための、最も残酷な形の「評判への投資」だったのである。
そして、その効果は現実にあった。だが同時に、この評判は本願寺側の「信長は仏敵」という動員の物語を強化し、決死の抗戦を長期化もさせた。恐怖の調略は、敵の物語に燃料を供給する。この両刃の構造は、現代の紛争にも通じる普遍的な力学である。




