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『何者にもなれなかった男』  作者: こうた
第1章何者にもなれなかった男

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第9話「揺れる選択」

落ちる感覚は、何度経験しても慣れなかった。


胃の奥が浮くような、現実が裏返るような感覚。



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広岡悟は目を開ける。



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まず耳に入ったのは、遠くで鳴るチャイムの音だった。



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(学校じゃない)



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次に気づく。


机がない。


教室でもない。



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代わりにあるのは、畳の匂い。


古い木の床。



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和室のような部屋。



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(どこだここは)



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ゆっくり起き上がる。



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体は中学生のままではない。


だが、明らかに“今の体”とも違う。



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(戻ってるのか……進んでるのか……)



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混乱の中で、襖が開く。



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「おはよう」



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そこにいたのは母親だった。



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若い。


記憶より若い。



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広岡は息を止める。



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(家……?)



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母は何気なく言う。


「今日は早いんだね、仕事」



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その言葉で確信する。



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20代。



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(ここは20歳の俺か)



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部屋の壁にはカレンダー。



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就職したばかりの時期。



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まだ“選択の余白”が残っている時代。



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広岡はゆっくり立ち上がる。



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鏡を見る。



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若い自分。


だが、目だけが違う。



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(知ってる目だ)


(全部終わった後の目だ)



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スマホが鳴る。



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地元グループのLINE。



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「今日飲み行くぞ」


「広岡いるだろ」



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いつもの誘い。



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いつもの流れ。



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そのとき、頭に声が響く。



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(また行くのか?)



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(また同じになるぞ)



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広岡はスマホを握りしめる。



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(断るか?)



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(それとも……)



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その瞬間。



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玄関のチャイムが鳴る。



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ピンポーン。



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母の声。


「友達来たよー」



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扉が開く。



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そこに立っていたのは、竹中清だった。



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しかし、雰囲気が違う。



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まだ“壊れていない竹中”。



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まだ“可能性のある顔”。



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「よっ、悟」



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軽い声。



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広岡の胸がざわつく。



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(ここでまた選ぶのか)



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竹中が言う。


「今日さ、ちょっと都会行ってみね?」



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その一言。



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未来を変えるには十分すぎる提案。



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広岡の頭に、


複数の未来が一瞬で流れる。



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・地元で飲み続ける未来

・資格を取らずに沈む未来

・同じ仲間で老いる未来



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そして――



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・違う人生に行く未来



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呼吸が浅くなる。



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(まただ)



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(またここだ)



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選択の瞬間。



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何度も逃げてきた場所。



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広岡は気づく。



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このタイムリープは、


人生をやり直す力ではない。



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“選べなかった自分を選ばせる装置”だ。



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指が震える。



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スマホ。


竹中。


地元グループ。



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全部が“今までの人生”につながっている。



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そしてもう一つ。



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“まだ知らない未来”。



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広岡はゆっくり目を閉じる。



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(どっちだ)



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(俺はどっちだ)



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そのとき。



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またあの視線を感じる。



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バーの男。


どこかで見ている。



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そして――



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広岡悟は、ついに決断する。



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手を伸ばす。



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その瞬間、世界がひび割れた。



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(続く)

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