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『何者にもなれなかった男』  作者: こうた
第1章何者にもなれなかった男

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第10話「分岐点」

ひび割れた世界は、音を立てずに崩れていった。


ガラスが砕けるような派手さはない。

むしろ静かだった。


静かすぎて、現実の方が嘘に見えるほどに。



---


広岡悟は目を開ける。



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そこは、あの場所だった。



---


『人生の交差点』



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古い木のカウンター。

ジャズの音。

琥珀色の光。



---


何も変わっていない。



---


ただ一つ違うのは――



---


広岡の呼吸が乱れていることだけだった。



---


「戻ってきたのか……?」



---


声がかすれる。



---


カウンターの向こうで、あの男がグラスを拭いている。



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何事もなかったように。



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男は静かに言う。


「おかえりなさい」



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広岡はカウンターを叩く。



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「ふざけんな」


「俺は選んだぞ!」



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男は目を上げる。



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「ええ」



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短い返事。



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それが逆に怖い。



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広岡は息を荒くする。



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「戻っただろ!」


「中学とか高校とか20歳とか!」



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男は少しだけ頷く。



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「戻りました」



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「じゃあなんで俺はここにいる!」



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男はグラスを置く。



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静かに言う。



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「あなたはまだ“確定していない”からです」



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沈黙。



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広岡はその言葉の意味を理解できない。



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「確定……?」



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男は続ける。



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「人生は一本の線ではありません」


「分岐の集合です」



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「あなたはまだ“途中”です」



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広岡は笑う。


乾いた笑い。



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「意味わかんねえよ」



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男は否定しない。



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代わりに一つのグラスを差し出す。



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中には、何も入っていないように見える。



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透明な液体。



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だが、見ていると“色が変わる”。



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男が言う。



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「あなたは4つの人生を選べます」



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「中学」


「高校」


「20歳」


「30歳」



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広岡は睨む。



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「何が違うんだよ」



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男は答える。



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「すべてが違います」



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「そして、すべてがあなたです」



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意味が分からない。



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だが、なぜか拒絶できない。



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広岡の頭に、過去の断片が浮かぶ。



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竹中の顔。

阪田の笑い。

仕事の机。

病院の天井。



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そして、あの“選ばなかった瞬間”。



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男が静かに言う。



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「一度選べば、戻ることはできません」



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「ただし――」



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広岡の目が動く。



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「ただし?」



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男は初めて、わずかに感情を見せる。



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「あなたは“後悔のない人生”に近づくことができます」



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広岡は息を止める。



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後悔のない人生。



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そんなものがあるのか。



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手が震える。



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グラスに触れる。



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その瞬間。



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頭の中に声が響く。



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(本当にやるのか?)



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(逃げてきた人生だぞ)



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(また同じじゃないのか)



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広岡は目を閉じる。



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そして――



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ゆっくりとグラスを持ち上げる。



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男が言う。



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「どこへ行きますか」



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沈黙。



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広岡悟は答える。



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「……中学だ」



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その瞬間。



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世界が光に包まれる。



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ジャズが消える。



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バーが消える。



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男の声だけが最後に残る。



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「では、始めましょう」



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そして広岡悟は、



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もう一度、



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人生の最初の分岐へ落ちていった。



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(第1章・完)



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