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『何者にもなれなかった男』  作者: こうた
第1章何者にもなれなかった男

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第8話「止まった身体」

広岡悟は、教師の言葉の直後から動けなかった。


「今日、部活どうする?」


その一言が、異様に重い。



---


(部活)


(選択)


(ここで変わる)



---


頭では理解しているのに、身体がついてこない。



---


教室の空気は普通だった。


誰も彼の中で起きている異常に気づいていない。



---


竹中が後ろから声をかける。


「おい悟、早く行こうぜ」



---


その声は、記憶より少しだけ軽い。


まだ“固まっていない人生”の声だ。



---


広岡はゆっくり振り向く。



---


竹中の顔。


阪田の笑い声。


教室のざわめき。



---


すべてが、過去なのに“現在”として流れている。



---


(俺は今、ここにいる)


(でも、俺はもう一回人生を知ってる)



---


その違和感が、気持ち悪いほどリアルだった。



---


教師がもう一度言う。


「どうする?広岡」



---


沈黙。



---


周囲の視線が少しだけ集まる。



---


この瞬間が、


“人生の中で一番軽い選択”のはずなのに、



---


なぜか、最も重く感じる。



---



---


広岡の脳裏に、未来が一瞬だけよぎる。



---


地元の居酒屋。


笑うだけの毎日。


資格もない。


出世もない。


誰も変わらないまま老いる顔。



---


そして病院。


白い天井。


余命宣告。



---


(あれが、待ってる)



---


息が詰まる。



---


広岡はゆっくりと手を握る。



---


指が震えている。



---


(選べ)


(ここで選べ)



---


だが、身体が動かない。



---


「悟?」


竹中が不思議そうに見る。



---


その瞬間。



---


広岡は気づく。



---


(俺は“初めての選択”に弱いんじゃない)



---


(俺はずっと、“決めること”から逃げてきた)



---


視界が揺れる。



---


教室の音が遠くなる。



---


心臓の音だけが大きくなる。



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---


そのときだった。



---


机の中から、何かが落ちる。



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カタン。



---


小さな音。



---


広岡は反射的に見る。



---


そこにあったのは、


一枚の紙。



---


部活勧誘のプリント。



---


『入部届』



---


それを見た瞬間、


胸の奥が締め付けられる。



---


(これだ)



---


(これを出すかどうかで全部変わる)



---



---


竹中が笑う。


「お前どこ入るんだよ」



---


阪田が言う。


「どうせ帰宅部だろ」



---


笑い。


軽い空気。



---


だが広岡には、それが“未来の分岐音”に聞こえた。



---



---


(ここで変えないと、俺はまた同じになる)



---



---


手が伸びる。



---


入部届へ。



---


だが途中で止まる。



---


(でも……地元の連中は?)


(あいつらと離れる?)



---


頭に浮かぶのは、


笑い合っている未来の自分だった。



---


居酒屋。


仲間。


いつもの店。



---



---


広岡は気づく。



---


変わることは、


何かを得ることではない。



---



---


何かを“捨てること”だ。



---



---


その瞬間。



---


教室の音が一瞬だけ止まる。



---


窓の外の光が揺れる。



---


時間が薄くなる。



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---


広岡の指が、止まったまま動かない。



---


(俺は)


(どっちを捨てる?)



---



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視界の端で、


誰かが見ている気がした。



---


あのバーの男。



---


どこにもいないはずの視線。



---



---


広岡はゆっくりと目を閉じる。



---


そして――



---


手を動かそうとした瞬間。



---



---


世界が、再び崩れた。



---


音が消える。



---


光が裂ける。



---



---


そして、意識が落ちていく。



---


(続く)

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