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『何者にもなれなかった男』  作者: こうた
第1章何者にもなれなかった男

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第5話「雨の路地」

広岡悟は、扉の前でしばらく動けなかった。


木造のドアは古びていて、現実のものとは思えない質感だった。

それなのに、確かにそこに“存在”している。


ジャズの音が、隙間から漏れている。



---


(ここ、どこだ)



---


背後を振り返る。


さっきまでいたはずの街はない。


コンビニも、街灯も、若者たちもない。


ただ細い路地だけが続いている。


湿った空気。


雨上がりの匂い。



---


広岡は一歩下がる。


だが背中にはもう、元の世界がない。



---


「ようこそ」


声は扉の向こうからだった。



---


広岡は反射的に扉を見た。


いつの間にか、少し開いている。



---


中にはカウンターが見えた。


薄暗い照明。


静かな空間。



---


そこに立っていたのは、あの男だった。


スーツ姿のまま、何事もないようにグラスを拭いている。



---


「……お前」


広岡の声は低い。



---


男は顔を上げないまま言う。


「ここに来たということは、もう気づき始めていますね」



---


「何にだよ」



---


男はゆっくりグラスを置く。


初めて広岡を見る。



---


「あなたの人生が、思ったより“固定されている”ということに」



---


その言葉は、妙に現実的だった。



---


広岡は一歩踏み出す。


カウンターに近づく。



---


「ふざけんな」


「俺は普通に生きてきただけだ」



---


男は否定しない。


ただ、少しだけ目を細める。



---


「普通、ですか」



---


その一言が、妙に引っかかる。



---


店の奥から、氷の音が響く。



---


カウンターには誰もいないはずなのに、グラスが一つ置かれる。


中には薄い琥珀色の液体。



---


「飲みますか」


男が言う。



---


「いらねえよ」



---


即答だった。


だが視線はグラスから離れない。



---


男は静かに言う。


「それは、あなたの人生です」



---


広岡の眉が動く。



---


「……は?」



---


「正確には、“今までの選択の積み重ね”です」



---


冗談にしては質が悪い。


だが、笑えない。



---


広岡は無意識にグラスを見る。


揺れている。


まるで生きているように。



---


「バカにしてんのか」



---


男は首を振る。



---


「違います」


「むしろ、よくここまで来ました」



---


外で、雨の音が聞こえる。


さっきまで降っていなかったはずの雨。



---


いつの間にか、世界が変わっている。



---


広岡はカウンターに手を置く。


木の感触がやけにリアルだ。



---


「ここはどこだ」



---


男は答える。



---


「人生の交差点です」



---


その言葉は、スマホに出ていたあのメッセージと同じだった。



---


広岡の背中に冷たいものが走る。



---


「ふざけるな」


「夢か?酔ってんのか?」



---


男は少しだけ間を置く。


そして言う。



---


「あなたは今、“分岐点”にいます」



---


「分岐点?」



---


「ええ」


「このまま進めば、あなたの人生はほぼ確定します」



---


広岡は鼻で笑う。



---


「確定?」


「人生が決まってるわけねえだろ」



---


男は静かに返す。



---


「そう思っていたから、今ここにいるのです」



---


沈黙。



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雨の音だけが続く。



---


広岡はグラスを見る。


手を伸ばしかけて、止める。



---


「飲めばどうなる」



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男は答える。



---


「あなたは、過去に戻ります」



---


一瞬、時間が止まる。



---


「……は?」



---


「戻れるのは四回までです」


「中学生、高校生、20歳、30歳」



---


広岡は笑う。


乾いた笑い。



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「頭おかしいんじゃねえのか」



---


だが、足は動かない。



---


男は続ける。



---


「戻るのは簡単です」


「ですが、変えるのは簡単ではありません」



---


グラスの中の液体が、わずかに揺れる。



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広岡はそのまま数秒見つめる。



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そして、小さく呟く。



---


「……もし戻れたとして」


「何が変わるんだよ」



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男は初めて少しだけ表情を変える。



---


「それは、あなた次第です」



---


沈黙。



---


雨音が強くなる。



---


広岡はグラスを見つめたまま、動かない。



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そして、ゆっくりと息を吐く。



---


(俺の人生が、固定されてる?)


(ふざけるな)


(そんなわけがない)



---


だが、その否定が、どこか弱い。



---


グラスに手を伸ばす。



---


指が触れる。



---


その瞬間――



---


視界が白くなる。



---


音が消える。



---


雨が止む。



---


そして、広岡悟の意識は沈んでいった。



---


(続く)

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