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『何者にもなれなかった男』  作者: こうた
第1章何者にもなれなかった男

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第6話「人生の交差点」

目を開けた瞬間、まず感じたのは“静けさ”だった。


音がない。

匂いがない。

時間の流れすら曖昧だった。



---


広岡悟は、カウンター席に座っていた。


さっきまで立っていたはずの場所ではない。


目の前には、琥珀色のグラス。


そして、その向こうにあの男がいる。



---


「……夢か?」


声は自分のものなのに、どこか遠かった。



---


男は答えない。


ただ静かにカウンターを拭いている。



---


広岡はゆっくりと周囲を見渡す。



---


薄暗い店内。


古い木の壁。


止まったような時計。


ジャズの音。



---


すべてが現実のようで、現実ではない。



---


「ふざけてんのか……」


広岡は立ち上がろうとする。


だが体が重い。


まるで空気が違う。



---


男が言う。


「ここでは、現実のルールは少しだけ違います」



---


「少し?」



---


男はグラスを指す。



---


「それを飲めば、理解できます」



---


広岡はグラスを見る。


中の液体は、さっきよりも深い色をしている。



---


(人生だって言ってたな)


(ふざけたこと言いやがって)



---


だが、目が離せない。



---


広岡は小さく笑う。



---


「飲んだら戻れるんだろ」



---


男は頷く。



---


「はい」



---


「どこにだ」



---


「あなたの過去に」



---


一瞬、呼吸が止まる。



---


広岡は鼻で笑う。



---


「バカじゃねえのか」


「そんなのあるわけねえだろ」



---


男は否定しない。


ただ静かに言う。



---


「信じる必要はありません」


「選ぶだけです」



---


その言葉が、妙に引っかかる。



---


選ぶ。



---


広岡は今まで、選んできたつもりだった。


就職も。

仲間も。

飲み会も。


全部、自分で決めてきた。



---


だが本当にそうだったのか。



---


グラスの中の液体が、わずかに揺れる。



---


「戻るってのは……何が変わる」



---


男は答える。



---


「すべてではありません」


「ただ、“分岐”が変わります」



---


「分岐?」



---


「はい」


「あなたが見逃した選択の瞬間です」



---


沈黙。



---


広岡はカウンターに肘をつく。



---


(分岐)


(選択)


(見逃した?)



---


そんなものが本当にあるなら、


今の自分は何なんだ。



---


男が続ける。



---


「中学生、高校生、20歳、30歳」


「それぞれに戻れます」



---


「ただし」



---


広岡の目が動く。



---


「一度戻れば、その後の人生は変わります」



---


「当然だろ」



---


男は首を振る。



---


「変わるのは“結果”だけではありません」



---


一拍。



---


「あなた自身も、少しずつ変わります」



---


広岡の背中に冷たいものが走る。



---


(どういう意味だ)



---


男は続ける。



---


「記憶は残ります」


「しかし、完全ではありません」



---


「少しずつ、“今のあなた”が薄れていきます」



---


広岡は眉をひそめる。



---


「は?」



---


男は静かに言う。



---


「人は、過去を変えるほど現在の自分を失います」



---


沈黙。



---


ジャズの音だけが流れている。



---


広岡はグラスを見る。



---


(戻れる)


(でも俺が消える?)



---


そんな馬鹿な話があるか。



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だが、否定しきれない何かがある。



---


広岡はゆっくりと息を吐く。



---


「じゃあ、聞くけどよ」



---


「戻って、全部うまくいく保証はあるのか」



---


男は即答する。



---


「ありません」



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あっさりした答え。



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広岡は笑う。



---


「だろうな」



---


(やっぱりただの幻想だ)



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そう思った瞬間だった。



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店の奥で、時計が鳴った。



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カチ……カチ……



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止まっていたはずの針が、ゆっくり動き始める。



---


広岡の視界が揺れる。



---


カウンターの木目が歪む。



---


男の声が遠くなる。



---


「選んでください」



---


「あなたの人生を」



---


広岡の手が、勝手に動く。



---


グラスへ。



---


指先が触れた瞬間――



---


世界が崩れた。



---


音が消える。


光が割れる。


時間がねじれる。



---


そして広岡悟は、


“どこかの過去”へ落ちていった。



---


(続く)

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