第3話「孤独な帰り道」
「広岡悟さん」
その声は、夜の空気よりも静かだった。
街灯の下に立つスーツの男は、まるで最初からそこに存在していたかのように自然だった。
広岡は一歩だけ後ずさる。
「……誰だ、お前」
声が少しだけかすれていた。
男は答えない。
代わりに、ほんのわずかに目を細める。
まるで観察しているようだった。
---
次の瞬間、広岡は目をそらした。
もう一度見ると、そこには誰もいなかった。
街灯の下は空白だった。
ただの夜道。
ただの静けさ。
---
(なんだよ、今の)
心臓が妙に早い。
酔いはもう完全に冷めていた。
---
広岡は足早に帰路につく。
いつもの道。
いつものコンビニ。
いつもの信号。
何も変わらないはずの帰り道なのに、今日は違って見えた。
---
コンビニの前で、若い男たちが笑っている。
大学生か社会人かもわからない。
ただ楽しそうだった。
広岡は無意識に足を止める。
---
(俺も、ああいう時期があったはずだ)
(でも、何してた?)
---
思い出そうとする。
だが出てくるのは曖昧な断片だけだ。
地元の仲間。
夜の公園。
酒。
笑い声。
そこに“未来”はなかった。
---
コンビニのガラスに、自分の姿が映る。
メタボ気味の体。
疲れた目。
曖昧な表情。
(これが俺か)
少しだけ笑えた。
笑えたはずなのに、胸の奥が重い。
---
家に着く。
ドアを開けると、音が消える。
世界から切り離されたような静けさ。
電気をつける。
白い光が部屋を満たす。
---
広岡はソファに倒れるように座る。
テレビをつける気にもならない。
スマホを見ても、特に何もない。
ただ時間が流れているだけ。
---
そのとき、ふと気づく。
部屋の空気が、さっきまでと少し違う。
説明できない違和感。
---
玄関の方から、かすかな音がする。
---
(またか)
---
ゆっくり立ち上がる。
昨日と同じだ。
昨日も、同じように“何か”があった。
---
玄関へ向かう。
一歩ごとに心臓が重くなる。
---
ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触。
---
その瞬間。
---
スマホが鳴る。
---
広岡は動きを止める。
着信ではない。
通知でもない。
画面に、またあの文字が浮かんでいる。
---
「あなたは、まだ気づいていないだけです」
---
呼吸が止まる。
---
ドアの向こうと、スマホの画面。
どちらも“現実”なのか判断できない。
---
広岡はゆっくりとドアを開ける。
---
そこには誰もいない。
ただ、外の空気が流れ込むだけ。
しかしその空気の中に、微かに“酒の匂い”が混じっていた。
---
(どこかで嗅いだことがある)
---
記憶を探る。
地元の居酒屋でもない。
家でもない。
でも確かに知っている匂い。
---
その瞬間、視界が一瞬だけ揺れる。
---
コンビニの明かり。
笑う若者たち。
街灯の下の男。
そして――
白いバーのような扉。
---
全部が一瞬だけ重なる。
---
広岡は息を呑む。
---
次の瞬間、すべてが元に戻る。
ただの夜。
ただの帰り道。
ただの現実。
---
だが、確実に何かがズレ始めていた。
---
広岡は空を見上げる。
雲の隙間から、月が見える。
その月が、少しだけ歪んで見えた。
---
(俺の人生、どこかで間違えたのか?)
---
答えは出ない。
出る前に、また思考を止める。
---
だが今夜は違った。
止めても、何かが残る。
---
広岡は静かに呟く。
「……なんなんだよ、これ」
---
その声は、誰にも届かない。
夜に溶けて消えた。
---
そしてその夜。
広岡悟は初めて、
“人生が自分の外側で動いている感覚”
を知ることになる。
---
(続く)




