18、盗まれた呪術書
テレビもなければ机もない。書物の類いもなければエアコンもない。ただ、蛍光灯の明かりが弱々しく点る六畳一間の和室。
ここが千尋の部屋だった。
時刻を示す時計すら置かれていないこの空間だが、物が何もないわけではない。
むしろ部屋の端を埋めるように積まれたダンボールのせいで、動けるスペースの方が少ないくらいである。
ダンボールの中に入れられているのは、均一に裁断された薄っぺらい和紙。一箱で数万枚は入るだろう。それが部屋の中に十数箱。そのうちの七割はすでに空になっている。
千尋は新しいダンボール箱から和紙を一つかみ取り出し、部屋の中央に置かれた物体に貼りつけたり、すでに貼っていたものを剥がしたり。
ただそれだけの作業。
夜中の七時、八時、九時……。
千影は今頃明日の課題を終え、テレビドラマに夢中になっているはずだ――などとは微塵も考えず、ひたすら手を動かし続ける。
その時だった。
「千尋くん、いるー?」
襖のすぐ向こう側から聞き覚えのある女性の声。数少ない知り合いの一人だった。千影が家に入れたのだろう。こんな夜中に何しに来たのか――などとは考えない。邪魔されたくなかったため、聞き流して作業に没頭。
それができるのも、三時間前から襖の前に真冬を待機させてあったからだ。千影が無断で入ってこないようにとの配慮だが、もちろん彼女への命令は外部の人間に対しても有効だ。
「千尋様はただ今作業をなさっております。日を改めてお越しください」
ここは真冬に任せても大丈夫だろう。わずかに止まった手を再び動かし始めた、のだが……。
「そんなこと言わずにさ、少しだけだから。大事な話なの。ねっ?」
図々しくも諦めの悪い女性のようだ。まぁ、それは最初から知っていたことだが。
「千尋様から誰も入れぬようにとの命を仰せつかっております。お引き取りください」
淡々と答える真冬。相手の女性は、
「だからそこをなんとかって言ってるんでしょ? 真冬ちゃんの好きなケーキも買ってきてるのよ? 入れてくれたらこれ全部あげる。どう?」
「……お、お引き取りください」
「あっ、今ゆれた。ゆれたね? 欲しいんでしょ? ほれほれー」
「やめてください。強制的に排除しますよ」
「ちょっとぉ、冗談じゃない。怖いこと言わないでよぉ。わかった。そっちがその気なら――」
襖の前から離れていく女性。ほどなくして――居間から千影を引っ張ってきたようだ。
「もう! わたしドラマが……、ドラマ見るので忙しいのに……」
「まぁまぁ、いいからいいから。千尋くんを部屋から出してくれたらこのケーキあげるから」
「えっ、ホントに?」
弾んだ声が聞こえてくる。この調子の姉さん相手だと、真冬でも少し分が悪いか――手を止めて静観する千尋。
「真冬ちゃん、ここ開けて?」
甘ったるい千影のおねだりボイス。しかし、
「駄目です」
「わたしがお願いしてるのに?」
「私の主は千尋様ですから。千尋様以外の命令は受け付けません」
「何それー。じゃあ、千尋ちゃんが死ねって言ったら真冬ちゃん死ぬの?」
「死にます」
「じゃあ、じゃあ、ゴキブリ食べろって命令されたら?」
「食べます」
「嘘だ! 絶対嘘だ! だってゴキブリよ? あのカサカサして、ツヤツヤした――って、あん、ダメ! 鳥肌立ってきた」
「ちょっと千影ちゃん! 負けてる、負けてるよ! がんばれ!」
必死に応援に回る女性だが、
「がんばれないよ、だって真冬ちゃん、千尋ちゃんのためならゴキブリも食べられるんだよ? この愛はわたしの気持ちを完全に上回っているわ。だって、わたし千尋ちゃんのためでもゴキブリだけは食べられないもの……」
「例えが極端過ぎるのよ! もういいわ。こうなったら私がやるから」
ジッとしたまま警戒心を高める真冬だが、
「千尋くんいる? 聞こえているんでしょ?」
襖の向こうから直接呼びかけてきた。
真冬がそれを止めようとしなかったのは、千尋の命令が『誰も入れるな』だったからだろう。融通は利かないが、その代わり言われたことは愚直なまでに守り通す。それが使役された者の存在理由だ。
女性はよく通る声を上げながら、
「話があるの。『石の魔術師』のことで――」
バンッ! と襖が開けられる。真冬の真後ろに立つ千尋を見て、女性――ステラス・エンフィールドは、自身の軽率な行動を恥じた。
いつもと変わらない千尋の無表情だが、その瞳に、わずかに非難の色が浮かんでいるような気がしたからだ。
「ん? ほるん、へるす?」
小首をかしげる千影。すぐに千尋が、
「なんでもないよ。ステラ、外で話そうか。姉さんはドラマの続きでも見ていて」
襖を閉め、玄関へと歩き出す千尋。一瞬部屋の中にあった物体に気をとられたステラだが、すぐにその後を追う。
「ちょっと待って! どこ行くの!? ちょっと千尋ちゃん! まさかいやらしいお店じゃないでしょうね!? お姉ちゃん許しませんよ!」
遠くなっていく姉の声を耳にしつつ、無言のまま家を出た。
三年前の一件以来、頻繁に千尋宅を訪れるようになったステラ。必然的に千影とも距離を縮め、今では自分よりも本当の姉妹のように見える時がある。
それを嬉しくも悲しくも思わないのは、自分には心というものが存在していないからだろう。
珍しくそんな感傷的なことを胸のうちで消化しつつ、歩くこと五分。二人が訪れたのは近所の公園。夜遅いせいか、人の姿は見受けられない。
「ゴメンね、千尋くん。つい口がすべっちゃって」
口止めされていたわけではないが、千尋の態度を見て察したステラ。
千影の前では『石の魔術師』の話題はNGだったのだと。そこからの謝罪だった。
「別に」
そっけなく答えつつ、ステラの全身を視界に収める。
イヤリングやネックレスなど、小物には気を配っているみたいだが、服自体はピチっとしたジーンズにロングTシャツのラフな格好(ひょっとしたらヴィンテージ物かもしれないが、そんなこと知るわけない)。
体のラインが浮き出ており、夜中にこのような肢体をさらせば寄ってくる男も多いだろう――と、別に心配したくてしているわけではないのだが、なぜかそのような発想に至る自分に少しだけ困惑してしまう。
風に吹かれるままにあおられるステラの右袖。
三年前、式鳥を使って切り落としたせいで、彼女は肩口から先を永遠に喪失してしまった。あの時、切らずにもう少し待っておけば、駆けつけてきた八芽によって元に戻せていたかもしれない。いや、戻せていたに決まっている。
自由に石化を解除させることができる八芽なら、たとえ全身が石化したステラであろうと、なんの障害もなく復元させることができたはずなのだ。
つまり、自分がやったことは、ただ徒にステラに苦痛を与えただけ。もちろんそれが結果論であることはわかっている。あの時はああするしかなかったと――。完全に石化したステラを、『石の魔術師』が破壊していたかもしれないのだし――。
だからというわけではないが、千尋としては別に反省しているわけではないし自分の行動を正当化するつもりもない。もしステラに恨まれていたのだとしても、赦してもらおうなんて思っていない。
なら一体何を気にしているのかというと……。
三年経った今でもステラの右腕のあった部分を目にすると、こういったことを何度も思い返してしまうことにある。
それがどんな感情の揺らぎから生まれたものなのか……。考えるがわからない。
自分には心がないのだから、考えてもわかるわけないのだ。
そう思い込むことが、自身を慰める唯一の方法だった。
……慰める? どうして?
千尋の視線に気付いたのか、
「ああ、これ? もう全然大丈夫よ。今では左手で字も書けるし、チョップスティックスだって上手く使いこなせるんだから」
明るく笑ってやり過ごす。右手を失って以降、一度もステラから恨み節を聞かされたことがない。それだけがまだ救いであるといえた。
……救い? なんの?
「ねぇ、千尋くん。さっき言った大事な話なんだけど……」
ステラが神妙な顔つきで話しかけてきた。そちらに意識をよせる。
「もしかして昨夜の一件って、千尋くんがやったことなの?」
『バフォメット』襲撃のことである。
さぁとか、別にとか、ステラには関係ないでしょと口をつきそうになるが、
「もしそうだと言ったら?」
意に反してそんな言葉が出ていた。相手の返答に何を期待しているというのか……。
言った直後に少し後悔した千尋。ステラは、
「まだ『石の魔術師』を追うこと、諦めてないのね」
「まだってどういう意味? あいつが生きている限り、諦めるという選択肢は僕にはないよ」
「だからどうしてそこまで? もしかして『石の魔術師』に、その……、お父さんを殺された……とか?」
尻すぼみに小さくなる声。気軽に首を突っ込めるほど両者の繋がりは太くない。しかし、だからといって見過ごせるほど無関係でもなかった。
何も答えない千尋にしびれを切らしたのか、
「これ……」
小さめのショルダーバックから一束の書類を取り出す。ところどころ擦りきれてしわくちゃになっている。同時に、日焼けして変色した紙からは長い年月の経過を知らしめるものがあった。
呪術書――『生命の魂源』の一部だった。
千尋の反応をつぶさに観察していたステラだが、際立った変化はなかった。あえていうなら、鼻を一度すすり上げたくらいか。
「そう。ステラが持ってたんだね」
「驚かないの?」
「アルカナの管轄する保管庫から何者かに盗まれたという話は、『石の魔術師』本人から直接聞いている」
「そっか……、知ってたのか……」
ステラは『生命の魂源』に目を落とすと、ぽつぽつと語りだした。
「私がこの業界に入った駆け出しの頃ね、先輩たちに連れられていった先がその保管庫だったの。当初は敵全員を捕縛するつもりで行ったんだけど、さすがに手強くてね……。結局、敵の一人を拘束し、盗まれた一部の魔術書やら宝具を持ち出すのが精一杯だった。敵の追跡にあって半分ほどは奪われちゃったけど、その時の一つがこれよ」
手に持っていた呪術書をかざす。
「捕まえた敵から大方の事情は聞き出したわ。なんでも、死者を生き返らせる術式だっていうじゃない。驚いたけど、同時に怖くもあった。『こんなもの』持ってたら、今度は私たちが誰に狙われるかわかったものじゃないからね。一時は協会に預けることも考えたけれど、それはやめておくことにしたわ」
「どうして?」
「信用できないからよ。どこの組織もそうだけど、大抵上にいる人間ほど打算的で合理的になったりするものなのよ。こんな、『死者を生き返らせる』なんて反則まがいなものを提出なんかしたら、どんな金儲けの道具として使われるかわかったものじゃないからね」
「……………………」
「幸い、私のいた組織内には私利私欲に走る人はいなかった。みんなで話し合って出した結論は、持ち主を探し出して返すことだった。物が物なだけに、誰かに託したり処分したりするのは気が引けたし、保管し続けるにはこの呪術書はあまりにも魅惑に満ちていた。管理者が欲に目が眩まないとも言い切れないしね」
「そう。でも、どうしてステラが一人で『そんなもの』を僕のところに持ってきたの? 組織の中では下っ端だったんでしょ。持ち運びする時は監視の目がついたり、二人組で行動したりするものじゃないの」
この瞬間にも千尋は周囲に式鳥を飛ばしている。それによると、今現在ステラを監視している者はいないし、術的な痕跡も確認できない。ステラ自身に発信機や盗聴器なども取り付けられていない模様。
ということは、所属する組織には内密に『生命の魂源』を持ち出し、自分のもとへ持ってきたということか――。
そう考えたが、しかし、
「みんな殺されてしまったわ。生き残ったのは私だけ。どんな手を使って私たちの居場所を突き止めたかわからないけれど、今度はこちらのアジトが奴らに襲撃されることになったの。現場の混乱の中リーダーに指名され、みんなの協力もあって、いくつかの重要書類を持って私だけが逃げのびることに成功した。破壊されたか意図的に消去してくれたのか、私に関するデータが組織内に残らなかったおかげでしょうね。四年経った今でも追っ手がかからずにこうして生きていられるのは……」
当時のことを思い出しているのか、沈痛な面持ちで瞼を閉じる。
普通の人であれば、同情し、労わった言葉の一つでも――といくところだが、
「それで?」
冷たい響き。
「大事な話っていうのはそのことなの?」
「そのことって……。これって元々千尋くんが持っていたものなんでしょ? この呪術書を手に入れて、お父さんを生き返らせたいから、だから『あんなこと』してまで敵をおびき寄せるような真似したんじゃない。違う?」
ステラがこのような行動に出たのは、昨夜の『バフォメット』襲撃の件を千尋の仕業だと推測したからだった。その推論の後押しとなるものはいくつかあった。
テレビのリポーターが画面に示した証拠品――いつか見た『二十センチ四方の和紙』、そこに書かれた、まるでデジタル印刷したかのような文字、日本語、内容、事件が起きた場所……。
そして千尋が『石の魔術師』を狙う動機、『バフォメット』と『アルカナ』の繋がり、三年前の衝突。
『生命の魂源』の呪術書。本当は、仲間が殺され、自分一人でこれを管理しなければならなくなったとき、ずっとどこかに隠し、封印し続けようとも思った。あるいは燃やして灰にしてしまおうとも。
しかし、
迷っている最中に耳にした噂――『石の魔術師』が学長会議を狙っているとの情報。
組織のメンバーが生きている頃、仲間がネットに『石の魔術師』と『生命の魂源』の繋がりを流していたこともあり、ひょっとしたら呪術書の持ち主が『石の魔術師』を狙って現れるかもしれない。そこに行けば会えるかもしれない。この呪術書を返すことができるかもしれない。
そう考え、行った先で出会った一人の少年。
金や欲に目が眩んだ魔術師が多数を占める選考会で、一人だけその瞳に異質な色を湛えていた日本人の子供。ずっと気になっていた。三上という苗字を知ってもしやと思った。呪術書に書かれた日本語のような文字を見て、繋がりがあるのではと思った。
いろいろと調べてみると、六年前、三上家のあった屋敷は土砂の下に埋まってしまったとのこと。大規模な土石流が起きたらしい。しかし、当時の天候は晴れ。数日前から雨は降っていない。事件性はないとの発表だったが、不可解だと思った。
『石の魔術師』側の動きも調べたが、わからなかった。しかし、世界中で頻繁に事件を起こしていた石の魔術師の動向が、六年前のその期間は空白になっていた。三上清之介の所在が不明になったのもちょうどその頃だった。
偶然といえばそれまでだが、何か引っかかるものがあった。
学長会議当日。何度か会話を交わし、『石の魔術師』、そして『生命の魂源』について探りを入れたとき、千尋は何も答えなかった。しかし、何を考えているかわからない子だが、何かを考えていることだけは伝わってきた。
直感が確証に変わったのはその時だった。
この子を一人にさせてはいけない。放っておけばその結末がどうなるかを想像するのは難しいことではなかったから――と。
ステラは、今や自分よりも背の高くなった青年に体を向けると、
「千尋くん。本当はこれ、三年前のあの時に渡すつもりだったの。君がこの呪術書の、『生命の魂源』の所持者だと、関わりがあるとあの時言ってくれたら渡すつもりだった。でも君は黙ったまま何も答えなかった。ねえ、どうして? 君はお父さんを生き返らせるために『生命の魂源』を追い求めていたんじゃなかったの? それとも、『石の魔術師』に復讐することが目的だったの?」
しばらく口を閉ざしていた千尋だったが、
「そうだね。どちらかといえばそっちの方が近いかな。でも、これは復讐じゃない。父の仇をとろうなんてこれっぽっちも思っていない。ただ、『石の魔術師』が千影にとって脅威になるから、だからあいつを殺す」
「嘘よ。じゃあ、なんでそんな目をしているの?」
「そんな目?」
「思いやりのかけらもない冷たい瞳。千影ちゃんのためなんかじゃない。それは復讐に捉われている人間の目よ」
「それはステラがそう思っているってだけの話でしょ。僕にそんな自覚はない」
「いいえ、千尋くんはわかっていないわ。あなたは三年前からずっとそんな目をしてる。憎くて憎くて仕方がない人がいるって、そんな目を、そんな顔をしている」
「話はそれだけ? もう行くよ」
千尋はわざとらしくため息をつくと、背を向けて歩き出す。
「待って! じゃあこれはどうなってもいいわけ?」
千尋の前に体を入れるステラ。彼女にとっての切り札はこれだ。奪われないように強く呪術書を握り締める。千尋は、
「だから僕の目的は『石の魔術師』の命を終わらせることであって、父を生き返らせることじゃない」
「でも、取引の材料となる物は必要でしょ」
「……………………」
「さっきアルカナの保管庫に踏み入った時に、敵の一人を拘束したって伝えたわよね。その人物から全て聞き出したわ。『石の魔術師』自身にも生き返らせたい人がいるから『生命の魂源』を追い求めていたそうじゃない。千尋くんが昨日の夜にあんな派手なことしでかしたのはそのためでしょ。目的の物で釣って、おびき寄せるために。君にこれを使うつもりはないのだとしても、必要になるものなんじゃないの?」
「……そうだね。必要になるものだけど、『それ』は必要じゃない」
「どういうこと?」
「失われた部分は自分で作った」
「そんなことできるの?」
「呪術書の内容は全て記憶している。それを元に復元した。触媒としての働きには期待できないけど、奴を釣る餌としてはそれで充分だよ」
「そんな……、じゃあこれは……」
「捨てるなり燃やすなりすればいい」
冷たく言い放ち、千影の待つ自宅へと足を向けた。
ステラが呼び止めることは、なかった。
次話から再び過去に話が飛びます。
九年前。千尋の住む村を襲った石の魔術師。
そこで何が起きたのか。
真相編です。




