12、嫉妬
「ちくしょうッ!」
山の中で一人大木に向かって拳を打ちつける正太郎。
たった今経験したことは、彼が必死に手繰り寄せて塗り固めてきた小さなプライドを打ち砕くには、充分過ぎるほどの衝撃を伴っていた。
兄の清之介とは一才違い。完璧に式を使いこなす兄を、尊敬と憧れの目で見ていたのはもう遠い昔のこと。最初に『そう』だと気付かされたのは七歳になるかどうかの時。
――今自分が必死になって覚えようとしている術式は、お兄ちゃんは五歳の頃にはできていたんだよな――それが長いこと苦しめられる嫉妬の始まりだった。
三上家では、呪術、つまり一つの式神を扱うには一つの霊魂を消費するという考えが教え込まれている。そのため、修行の場は父上同伴の元、限られた空間で、限られた時間にしか行うことができなかった。
だが、年を追うごとに兄との差が広がっていく一方だということを悟らされていた正太郎。兄に嫉妬と対抗心を燃やしていた少年には、何もしない、何もできない時間というのは苦痛でしかなかった。
そんな時に知り合った一人の女性――千草八芽。八芽の弟の五樹と、叔母である朱里の婚約の儀が催された時である。
呪術の、その中でも限られた式しか教えられていなかった正太郎には、目の前で八芽がみせてくれた多種多様な動物、昆虫を模して作られた式神と呼ばれる『本物の術式』が、とても彩りよいものに見えてしまったのである。
正太郎がのめり込むには、それだけで充分であった。
これを覚えて、兄ちゃんに一泡噴かせてやる。そう思っていたのも束の間、こっそり通い始めた八芽との特訓の時間は、さつきを通して清之介の耳に入ってしまったのである。
子供の頃から堅物だった兄。最初は正太郎を連れ戻すためだけに八芽の家に向かっていた清之介も、八芽の披露する『式神』を目の当たりにしたとあったら、そこはやはり子供。罪悪感のあるような顔をしながらも、自分も流されるままに教えを受けるようになってしまったのであった。
当然、そうなれば才能のある兄のこと。見る見るうちに正太郎よりも数多くの術式をマスターし、ただでさえ広がっていた差は絶望的なまでの距離になっていった。
母を通じて、父からの間接的なプレッシャー(八芽のところには行くな)のおかげで、兄が千草家に通う回数は減ったものの、正太郎はそれを無視し続けた。
兄のいない時間をチャンスとばかりに必死になって努力していたのだが、しかし……。
それも長くは続かなかった。
子供ではあるが、無知な年頃ではない。ある程度世界の広がりを認識し、自分の限界を知っていく年頃――思春期に入り、彼は知る。
人には生まれ持った才能があり、努力ではそれを越えることはできないのだということに……。
そして彼は気付く。兄に対抗心を持つことの馬鹿らしさ。
そして彼は変わる。別に兄を相手にしなくても、周りの無知な同級生相手なら充分ヒーローになれるということに。
さつきに恋心を抱いたのも丁度この頃である。
それからというもの、正太郎が千草家に通う理由の第一がさつきに会うためであり、第二が珍しい術を教えてもらって周りに自慢することになった。
八芽も、そんな正太郎の心境の変化には気付いていただろうが、これまでと態度を変えることなく――毒舌ではあったが――面倒をみてくれた。
――兄さえ視界に入れなければ、充分楽しくやっていけるじゃないか。
そのように持ち前の明るい性格で楽しく過ごすことができていたのだが――
やはり、兄弟であるこの男の存在を追い払うことなど、できはしなかったようだ。
周囲に見せびらかして遊んでいた正太郎の行為に、兄が気付いてしまったのである。すぐに現場を取り押さえられ、父へと報告。待ち受けていたのは叱責と体罰。
自分が悪かったんだと真摯に反省するような性格であれば、そもそもこんなことにはなっていない。表には出さなかったが、筋違いの恨みを抱え込む。
その一因には、さつきの兄に対する態度と、自分に対する態度に違いがあることも関係していた。
そして彼は忘れていたあの感情を思い出してしまう。
――嫉妬。
どうして俺ばっかり――。どうして兄貴にできることが俺には――。どうしてさつきは兄貴のことを――。どうして――。どうして――。
時期が中学三年生ということもあっただろう。
独り立ちできるほど大人でもなく、全てを投げ出せるほど子供でもない。
父や兄に逆らう気概もなく、さつきに告白できる勇気もない。
自信をつけるには、何か一つでもいいから兄に勝るものを――。
そう考えたが、中途半端なものではかえって惨めになるだけ。やはり、兄を越えるといったら、生物に備わりし根源的で絶対的な力。それを持つことだった。
呪術や魔術の才能では勝てないことはわかっている。しかし、実際に一対一で勝負した時、最後に立っているのが自分であればいい。
単純に兄より強くなりたい――そういう想いだった。
もちろん懸けているのはプライドなため、奇襲など卑怯な手を使って勝つつもりなどない。
真正面から叩き潰す力。それを手に入れること。
まずは体を鍛えようと、トレーニングに励む日々。
そんなある日、八芽から引越しの手伝いをお願いされる。あまり気は乗らなかったが、昔から世話になっているということもあり、渋々とではあったが行くことにした。
そして正太郎は一つの木箱を見つける。八芽からはここは触らなくていいと言われていた一角。そこに厳重に封をされた『何か』があったのだ。
職業『魔術師』である八芽が大事に抱え込んでいるものといったら、一つしか思いつかなかった。
禁術指定の何か特別な魔術書。直感的にそう思ってしまった。同時に、これがあれば兄貴を越えられる――とも。
どう言い繕えば貸してもらえるか、などとは一瞬たりとも思わなかった。どうやって手に入れようか、それだけだった。
チャンスはいくらでもあったが、何か、どこかから見られているような気がしてなかなか手が出せなかった。しかし、徐々に荷物が運ばれていき、時間だけがなくなっていく。
焦りを覚えた正太郎は――ついに手を出してしまう。その時、
「何やっているんだい?」
背後から八芽に声をかけられる。あまりのタイミングのよさに全身が硬直してしまうが、懐に仕舞いこんだ今となってはもう言い逃れなどできない。気付かれていないことを祈り、平静を装いながら反射的にとぼけた。
「いや、別に……。何があるのかなーっと思って」
「ふん、あたしの下着なんかに興味なんてないだろ? こっちきな。休憩にするよ」
どうやらバレずに済んだようだ。
隠し持っている間、気が気ではなかったが、無事に自分の部屋に持ち帰ることに成功した。
中身を見たが……、さっぱり理解できない。それでも数々の教本や文献を頼りに一つ一つ解読していく。全てを翻訳し終えて出てきた最初の一言が、「こんなの自分にできるのか?」それほど難解な術式だったが、兄に対する対抗心が彼の弱気な心を封じ込めた。
それからというもの、トレーニングと平行して修行に励む日々。三ヶ月が経ち、半年が経ち、一年が経過。飽きやすく、あまり集中力の持続しない正太郎だったが、兄を超えたいという一心で努力を続ける。
そして二年が経ち、ようやく形になってきた。順調に事が進んでいるおかげか、この頃には精神的にも余裕ができ、兄とも普通に会話できるまでになっていた。
――そしてこの日。
久しぶりに訪れた八芽の家。そこで聞いた内容。八芽が兄を魔術の世界にスカウトしている。
それを隣りで聞いていた正太郎は、マズイ! そう思った。
これじゃあ、また差が開いてしまう……と。
反射的に自分を連れて行ってくれとお願いしたが、結果はこのザマである。兄への挑戦権すら剥奪されてしまったのだ。
石の魔術……。あんな使い方するなんて考え付きもしなかった。いや、考え付いても試そうとは思わないだろう。自分の体を石にするなんて……。
一歩間違ったら死んでしまうじゃないか。
怒りに打ち震えているこの時においても、そんな弱気なことを考えている自分に腹が立った。
それからの数日は、ただ背後に流れていくだけのような無気力な日々だった。
なんか心底どうでもいい。勉強も友達付き合いも、進路も魔術も何もかも。そこに向けるだけのエネルギーは枯れ果ててしまった。少なくとも自分ではそう考えていた。
だが、
この日の夜に父から聞かされた話は、正太郎の中に残った種火に火をつけるには充分な熱を持っていた。
「嘘だろ……。兄貴とさつきが婚約……?」
早まる鼓動とは裏腹に、頭の中が真っ白になる。
「左様。清之介はまだしも、近年の三上は才を持たぬ者が増えてきておる。ここらで薄まった血をもう一度濃くするため、千草の娘と交わってもらうことにした」
「交わる……? んだよ、それ……。さつきの気持ちはどうなるんだよ……」
「すでに向こうの親には了承は取ってある」
「さつきの気持ちを聞いてんだよッ!」
カッと熱くなる。普段であれば平手打ちの飛んでくるところだが、この時は違っていた。
「そうか。お前、あの娘のことを……」
年頃の少年が、実の父に恋慕の情を感づかれてしまったのだ。違う意味で顔に血液が集まってきたのだが、さつきの気持ち次第ではまだ解消できる問題かもしれない。
あわよくば自分の方に……。そういう気持ちも少しはあっただろう。
逃げ出したい衝動を抑え、次に続く父の言葉を待つ。
「もちろん強制したわけではない。今はそういう時代ではないからな。それにあの二人が理想だが、あの二人じゃなければならないわけでもない。だから当人同士に考える時間を与えた。その結果がこれだったというわけだ」
「は……? 考える時間。そんなのいつ」
「ひと月前には話してあったことだ。そして先ほど本人からの返答があった。清之介は今向こうに挨拶に向かっている。正太郎。いろいろ含むところはあるかもしらんが、ここは――」
父から慰めの言葉をかけられていることはわかったが、全く耳に入ってこない。
正太郎は今、ある感情に支配されていたからだ。
ひと月前には話してあったこと?
ということは、
この一ヶ月間、自分だけ何も知らされずに蚊帳の外に置かれていたということかよ……。
体の内側から煮えたぎってくるどす黒い感情――怒りが全身に回り始める。
同時に戸惑いまで覚えてしまったのは、それをどこに向けて発散すればいいかわからなかったこと――怒りの矛先を向ける相手が、多すぎたことだ。
父や母だけでなく、お手伝いさんなどの家の者も、ひょっとしたら親戚連中もこのことを知っていたかもしれない。知らなかったのは俺だけ?
どうして兄貴は黙っていた。何日か前にさつきに対する気持ちを訊いた時、ただの遠縁の女の子だと言っていたじゃないか! さつきもどうして黙っていた! 八芽さんも! ホントは俺の気持ち知ってて隠していたんじゃないのか!
みんなで! みんなで俺のこと騙していたんじゃないのかッ!!
ちくしょう! ちくしょう! ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!
自分の部屋に駆け込み、何度も何度も枕や布団に拳を打ちつける。テーブルを蹴っ飛ばし、机の上に乗っかっていたものを全部払いのける。それでも足らず、壁や机の角など、あえて固いところを殴りつける。血が出たが、自傷行為に走ることでしか今の鬱憤を晴らすことはできそうになかった。
家中に響き渡るほど荒れに荒れ果てたが、父や母が止めにくることはなかった。そっとしておいた方がいいと判断されたのだろう。
やがて、全てを出し尽くした正太郎に訪れたのは、途方もない虚無感だった。
本当に、今回こそ、本当に何もする気が起きなかった。
本当に、本当にもうどうでもいい。
一時間後。清之介が帰宅。壊された正太郎の部屋のドアを見て声をかけたのだが、正太郎はベッドに横になったまま何も答えなかった。起きていたが、目を開けていたが、背後からの兄の言葉に、何も答えなかった。嫉妬とか怒りとか、微塵も湧いてこなかった。




