11、痛感
清之介が千草家を訪れたのは、正太郎とさつきが着いてから一時間後のことだった。
「おせーぞ、兄貴」
さつきと一緒に玄関まで出てきた正太郎の一言に、
「すまん、父さんを説得するのに時間がかかった」
「まだ俺たちがここに来ることでごちゃごちゃ言ってるのか?」
「そう言うな。父さんには三上家当主としての立場がある。息子がいつまでも八芽さんに指導を受けているとなると気にもするだろう。だから俺がここに来るのは今回で最後だ」
「えっ……最後、ですか?」
少し驚いた顔をするさつき。清之介は少し表情をやわらげると、
「安心しろ。あくまでも体面上の問題だ。お茶をご馳走になるくらいでよければ、いつでも伺わせてもらうよ」
「そうですか」
ほっとしたように息を吐き出すさつき。
「……………………」
二人のやり取りに、意味ありげな視線を往復させる正太郎。
「あっ、立ち話もなんですし、どうぞあがってください」
正太郎の様子に気付くこともなく、清之介を中に促すさつき。
「そうだ、これうちで作った干し柿だけど、よかったら食べてくれ」
「わぁ、本当ですかぁ。ありがとうございます」
清之介からのみやげ物に、心底うれしそうな顔でお礼を言うさつき。控えめで分をわきまえた娘ではあるが、ここでは家人らしく率先して二人をリビングへと案内した。
「お久しぶりです、八芽さん」
足を踏み入れるなり、こたつでみかんを頬張っていた女性に挨拶する。実年齢では今年四十歳になったはずだが、二十代と見まがうほどの若々しさを保っていた。
「あんたも正太郎も、しばらく見ない間にずいぶん大きくなったもんだねぇ」
「何を言っているんですか。三ヶ月前に会ったばかりですよ。八芽さんもお変わりないようで」
「変わらないわけないだろう。三ヶ月前より十は若返っているはずだけどね」
「まだ変装が解けないのですか?」
「解いていないのさ。女ってのは、いつだって若く見られたいものだからねぇ」
外見と話し方のギャップはここにあるようだ。
「本当に……お変わりないようで」苦笑しながら答える。
「ところで、あんたは高校出たらその後どうするんだい? 大学かい?」
「まさか。家を継ぎますよ。といっても、しばらくは父の手伝いでしょうけど」
「何を手伝うっていうんだい。総一だって隠居の身分で、大したことなんてやってないだろう」
「確かに、昔ほど仕事があるわけではありませんが、それでも必要としてくれる人たちはいますから」
「厄払いや精神治療の類かい? そんなの神主や医者に任せておけばよいだろう……、もったいない。あんたたちにしかできないことなんて外にいくらでもあるだろうに」
「式神のことですか? しかし、『式』は成仏する前の霊魂を消費してこの世から消滅させてしまいます。緊急時以外での使用はできません」
「相変わらず古い考えに捉われているねぇ。それは霊魂じゃなくてただの霊的エネルギーだよ。この世の全ての動植物は、死ねばエネルギーとなって空間に満ちる。放っておいても成仏するわけではないし、いくら使ってもなくなることはない。地球から生物がいなくならない限りはね」
三上家として生まれ育ち、父を尊敬して従ってきた清之介。だが、同時に八芽にも幼少の頃から世話になってきた身。科学的な根拠もなく、それを『教え』として受け入れてきた父の言葉と、良い、悪い、正しい、間違っているを自分で判断し、古い因習に捉われない八芽の考え。
意地になって否定できるほど彼の頭は固くなかった。
「昔ながらのやり方を守っていくことも大切だが、それをこれから先も維持したいのであれば、時流に乗った新しいやり方も組み込んでいかなくてはならない。清之介、お前もいつかは結婚して子を持ち、家庭を守っていかなくてはならなくなる。一方でこの村にいる限り過疎化は進み、村人の減少、三上家に対する信仰は落ちていくことになるだろう。その『教え』から抜け出せるようじゃないと、三上家に将来はないよ」
ここまではっきり言われてしまえば、彼も考えざるをえない。
「具体的にどうすれば……?」
「あんた高校出たらあたしの仕事を手伝いな」
「それって……」
「魔術師になるんだよ。しばらくはあたしのそばで学び、独り立ちできると判断できたら魔術師になるための公認試験を受けてもらう」
「それが時流に乗った新しいやり方というやつですか……? しかし、それでは……」
「家を空けることも多くなるだろうね。将来の三上家当主の立場から、協会に使われる側に回るわけだ。まぁ、兼任できないこともないだろうが……」
話が聞こえていたのか、お茶と干し柿を持ってきたさつきも真剣な顔で席につく。考え込む清之介に、八芽はお茶を一口すすると、
「総一とは子供の頃からの付き合いだが、反対はしないと思うよ。あいつは真面目で頭の固い奴だが、何が正しいかを見通す目は持っている。一方で臆病な一面もある奴だからね、自分からこんなこと口にすることはないだろうが、なに、あたしの方から口ぞえしてやれば了承はするだろうさ。もちろんあんたの人生だ。どうしたいかは自分で決めな」
「八芽さん! その話俺に、兄貴じゃなくて俺に行かせてくれ!」
ここまで黙って聞いていた正太郎。慌ただしく腰を上げる。
「お前はあと一年学校があるだろ。まずは卒業してから――」
「やめるよ。俺だって進学するつもりなんてない。俺は兄貴ほど出来はよくないし、それに次男だ。まず間違いなくうちを継ぐのは兄貴だろう。そうなれば俺は家を出て行かなくてはならなくなる。だったら今行かせてくれ! 頼む!」
正太郎の熱意に、八芽は少しの間口を閉ざす。幼い頃からこの二人の兄弟を見てきた彼女としては、今の正太郎の気持ちは痛いほどわかる。
年は一つしか離れていないが、小さい頃から優秀だった兄と平凡な弟。決して出来が悪いわけではないのだが、比較対象がそれなだけに、様々な感情を押し殺してここまで生きてきたはずである。
その積もりに積もった反発心が今の一言を言わせたのかもしれない。
――何か一つでいいから、兄貴よりも先に進みたい、と。
「駄目だね」
首を横に振る八芽。
「なっ!? どうして!」
「あたしが清之介を誘ったのは、この子なら『最低限』のことは一人でこなせると思ったからだ。さっき「しばらくはあたしのそばで学び~」などと言ったが、別に手取り足取り教えるつもりなんてこれっぽっちもないよ。自分で見て、自分で判断し、自分で行動を起こす。その経験を積ませるために一時的なパートナーとして指名しただけさ。悪いけど、今のあんたじゃそのレベルには達していない。今回はあきらめな」
「俺の……出来が悪いって言ってるのか……?」
「そうさ。酷なようだけど、この世界は実力が全てだ。今のあんたを連れていっても足手まといにしかならない」
「お母様! そのような言い方されなくても――」
さつきが入ってくるが、
「黙りな。この子のために言ってるんだ。正太郎、何もお前の全てを否定しているわけではないんだ。あくまでも『今のお前では』という意味さ。これから一年、卒業するまでしっかり修行しな。またその時になったら見てやるよ」
厳しい忠告。常に最前線に身を置いている彼女だからこそ、その言葉にも重みがある。
感情的になるか、大人しく引き下がるか――。
どちらかと思われた正太郎の言動は、しかし、そのどちらでもなかった。
「フン。八芽さん、『今のお前では』って、いつの頃の俺で判断しているんだ? 俺だってこの二年、陰で必死になって修行してきたんだ。三上家の代名詞ともいえる『式神』に関しては、確かに兄貴の方に分があるだろう。でも、『あの術』を修得した今なら兄貴相手だって互角以上に戦えるはずだ」
「あの術? 待て、今この二年って言ったね……。あんたまさか……」
無言でうなずく正太郎。それを見て、
「そうかい。失くしたと思っていたが、あんただったとはね」
納得したように目をつむる八芽。
「どういうことですか?」
尋ねた清之介に、
「二年前、この家に引っ越してくる時、あんたたちに手伝ってもらっただろ?」
「ええ、覚えてます」
千草家は住んでいた家の老朽化に伴い、二年前に今いる一軒家のこの家を新築で購入していたのだった。その際に、清之介と正太郎の二人に引越しの手伝いを頼んでいたことである。
「昔あたしが書いたやつなんだが、あの時一冊の呪術書を紛失してしまってね。使い方次第でいくらでも悪用の利くやつだっただけに、木箱に封をして入れておいたのさ。それを引越しの時に失くしてしまったって話だよ」
それを聞いて、正太郎をにらみつける清之介。
「お前が盗んだのか」
事実であれば言うまでもなく犯罪行為である。清之介の性格として、身内の不始末に反省を促す程度で済ませるとは思えない。それを知っている二人なだけに、怯えるさつきと、気まずそうに顔をそらす正太郎。
「悪いとは思ってるよ。でもどうしても俺は強くなりたかった……」
小さい声。今できる精一杯の言い訳だった。
今の清之介であれば、正太郎の頭をつかみ、地面に叩きつけてでも八芽に許しを請っていただろう。それぐらいの形相で怒りをあらわにしていたのだが、八芽が片手を出してそれを制す。
「可能性としてはそれしかないと思っていたがね。変に疑いたくなかったからこれまで放置していたわけだが……。まぁ、知ってしまったのなら仕方ない。その修行の成果とやら、見せてみな」
代わりに八芽が厳しくしかりつけるのかと思われたが、意外にも悪戯した子供に同調するかのような含んだ笑みをみせる。
一瞬呆気にとられるが、すぐに力強くうなずく正太郎。さつきの持ってきた湯のみを両手で持ち、目を閉じて集中する素振りをみせる。すると――
パキパキと乾いた音が聞こえたかと思いきや、湯のみが徐々に灰色に染まっていき、五秒経つ頃には中のお茶が完全に固体化した。
――『石化』だった。
「これは……」
初めて目にする現象だったのだろう。目を丸くする清之介。八芽は、
「石の魔術……そうだね、硬い岩石という意味を込めて、ホルンフェルスとでも名付けておこうか。あたしがあんたたちぐらいの年の頃に編み出した術の一つさ。乱用されると危険だということで、わざと難解な術式言語で書にしたためて秘匿してきたんだが、よくここまで形にすることができたね。大したもんだ」
先ほどまでの反省ムードはどこへやら、素直に喜びをあらわにする正太郎。八芽は、
「ただ、この術はこれで終わりじゃないだろう? 毒を扱う者は、同時に解毒させる術も持たなくては武器として成り立たない。言ってる意味わかるね?」
「もちろんです」
言うや、石化で覆われた部分がボロボロと崩れていき、固体化されたお茶も再び濁った液体となって元に戻っていった。湯のみからは白い湯気も立ち上っている。
「フム。一通りはこなせるようだね」
「八芽さん。先ほどの話ですが、これなら俺を一緒に……」
八芽の出したお題をクリアできたのだから、当然先ほどの要求は呑んでくれるんですよねと、そう思い込んだ正太郎の期待に満ちた眼差しは、次の八芽の一言で呆気なく崩れ去った。
「駄目だね。話にならないよ。この程度でよく清之介相手に互角以上の勝負ができると息巻いたものだ」
「えっ……」
「今のをどうやって実戦で活かすっていうんだい? その術をかける間、敵はジッとしていてはくれないよ」
「拘束します。敵が身動きできないように押さえつけ、その間に術を発動させます」
「拘束できる程度の相手なら、ナイフ一本あれば事足りるだろう? あたしが訊いてるのは、石の魔術をどう実戦に活かすかってことだよ」
「……じ、尋問とか。そう、この術を受ける側からすれば、自分の手足が石にされていけば恐怖も覚えるでしょう。尋問する時に使えるし、ほかにも、草花とか、その辺に落ちているものを石にして投擲武器として活用することができる」
「お前の言っているのは、追い詰めた後とか、追い込まれた後のことじゃないか。状況が限られているうえ、しかも有効的ではない。その程度の考えであの世界に首突っ込んだら、あんた、一ヶ月も生きちゃいられないよ」
「……………………」
黙り込むしかない正太郎。奥歯を噛み締めて悔しがる。
「じゃあどうすればいいんですか」
ふて腐れたように言葉を吐き出す。兄貴にできる最低限のことが自分にはできないと言われ、ならばと兄貴にできないことを証明したのに、今度はそれを真っ向から否定される。
あの世界で一ヶ月も生きられないなんて、知るわけないだろ。魔術師のいる世界なんて見たことないんだから――と、思春期の少年のような逆ギレとも取れる態度。八芽は、
「さつき、包丁持って外までおいで。あんたたちも」
言うや、上着も羽織らず玄関を抜け、寒空の下へと歩いていく。いきなり包丁持ってこいだなんてと、戸惑っていたさつきだったが、清之介に促される形で台所へと足を運ぶ。
立派な一軒家の、広い庭先へと出てきた四人。八芽と正太郎が対峙する形で立つ。
「あの、お母様。これは……」
わざわざ布で刃にあたる部分を包んできたさつきに、
「こんなものいらないよ」
乱暴に布をさつきに渡し、包丁をそのまま正太郎に放り投げる。体をそらしながらキャッチした正太郎は、
「あ、危ないなぁ! 何するんだよいきなり」
山なりだったが、もちろん危険であることに変わりない。それを見てフッと笑う八芽。
「そんなことで喚くんじゃないよ。あんたが魔術師になって相手にしようとしている連中はね、マシンガンやロケットランチャーぶっ放してくる奴らよりも危険なのがそろってるんだ。そのくらいで慌てるようじゃあ、先が思いやられるね」
ムッとした顔で包丁を強く握り締める正太郎。八芽の棘のある言葉遣いには慣れているはずだが、今の精神状態ではそれを許容しきることはできなかったようだ。
「で、こんなの俺に渡してどうしろって?」
苛立ちながらの質問に、
「あたしに向かって投げてきな。全力でね」
「はっ? いやいや、そんなことできるわけないだろ」
「いいからやりな」
「でも……」
戸惑う正太郎。なぜこんなことをさせるのかという疑問と、怪我をさせるかもしれないという心配、それ以上に八芽に刃を向けることに抵抗があるようだ。
玄関から見守っていた清之介は、ふぅと息を一つ吐き出す。この甘さもそうだが、八芽の意図に気付かない弟の姿を見て、確かに今のままでは魔術師としてはやっていけないだろうなと、そういった意味でのかすかな落胆。こんなこと八芽本人の口から説明させるのもどうかと思ったのか、
「正太郎。やれ。お前が知りたがっている石の魔術の実践的な使い方というやつを、八芽さんが直々にみせてくれるって言ってるんだ。遠慮すると逆に失礼にあたるぞ」
清之介からの忠告。薄く微笑んだ八芽の顔を見てようやく理解する。一瞬だけ横目でさつきを見たが、心配そうな顔をしているだけで特に何も言ってこない。見ているのも八芽の方だった。チッと一度舌打ちし、
「わかったよ。怪我しても知らねえからな」
吐き捨てるようにつぶやく。この時の正太郎は、無性に腹立たしい気持ちに陥っていた。それが『何に対して』なのかはわからない。ただ、この事態の進行に自分一人だけ取り残されているような、この後の結果が容易に予測できてしまうような――
少しでもそれに抗うため、正太郎は言われた通り全力で包丁を投げつけた。魔術的な才能は兄に劣るかもしれないが、肉体的な強さは遜色ない。むしろ自分の方が鍛えていると自負しているくらいである。
その鍛えられた肉体から放たれた包丁は、常人では反応することもできないほどの威力を持っていた。
八芽に迫る包丁。それが体の中心線からそれていたのは、ただのコントロールミスか、それとも彼の甘い性格ゆえか――。
カアァンと高い音を立て、八芽の左肩に突き刺さる。『それ』を見て目を見開く正太郎。彼からすれば考えもつかなかっただろう。自分の体を石にして身を守ろうなどとは……。
そう、八芽の左肩は、石化した魔素によって完全に防がれていたのである。
「別に銃でもよかったんだが、日本だと持ってるだけで罪に問われるからね。まぁ、これくらいの攻撃なら避けるまでもない。わかるかい、正太郎。お前が二年かけて培ってきた技術なんて、実戦においてはなんの役にも立たないってことが」
八芽がみせた技術の高さ、自分とのこの『差』は、今の正太郎は嫌というほど見に染みて理解させられていた。二年間必死になって努力してきたからこそわかる。自分はこんなに速く術式を発動させることはできないと。恐らくこれから先、どれだけの努力を積み重ねたところで、この境地にたどり着くことはできないのではないか――と。
なまじ優秀な兄を見てきて、努力することの無慈悲さを痛感している正太郎だからこそわかってしまう。
所詮は才能が全てだということに……。
「へっ、そんなもんかよ」
だからこそ腹が立ってしまう。それは自分への怒り、自分の無力さへの哀れみだったが、抱えてきたこの感情を吐き出すにはあまりにも状況が揃いすぎていた。
「たかが包丁一本防いだだけじゃねえか。なに、それができないと魔術師の世界では一ヶ月以内に殺されちゃうわけ?」
八芽は石の魔術の可能性について証明したに過ぎない。この術なら兄を越えられると豪語した正太郎がそれを否定するということは、完全にお門違いであるといえる。だけど自分を抑えられない。
「地味だな。石の魔術の実践的な使い方を教えてくれるっていうから、どんだけ期待したことか……。そんなもんだったら、最初っから修行なんてしなければよかったぜ」
「正太郎ッ!」
清之介がもの凄い剣幕で怒鳴りつけるが――
それでも反省の色をみせない。拗ねたように唇を尖らせる。そんな正太郎に、
「なら特別にもう一つみせてやるよ」
包丁の腹を手のひらに叩きつけながらそう言った八芽。正太郎が前を向いた直後には――
その場から八芽がいなくなっていた。気付いた時には、いや、後ろから羽交い絞めにされたことで気付かされた。
彼我の距離は二十メートルほどはあった。それが一瞬後にはこの有り様。首元には包丁の刃を当てられている。瞬間移動でもしたのかというほどの八芽の早業に、ただただ驚くばかり。
「そんな……どうやって」
「魔術によって運動性能を高めたのさ……まぁ、現代魔術でいうところの熱変換方式か。それと石の魔術の応用だね。速く動こうと思ったらそれだけ肉体に負担がかかる。だからその部分を石にして和らげてやったんだよ。大体六・四くらいの割合かね。動く時に必要とする筋肉を六割くらい石化させてやれば、今の動きでも体に負担をかけることなくこの速さを実現できる」
内容はシンプルだが、言われた事実が示す術式の難度の高さに言葉を失ってしまう。一つ一つは時間をかければ正太郎にもできたかもしれないが、それを同時にこんなに早くとなると……。自然と目を閉じて首を横に振ってしまう。八芽は持っていた包丁を下ろすと、
「正太郎、お前はまだまだ努力が足りない。文字通り『死に物狂い』で何かをやったことなんて一度もないだろう。あたしから言わせれば、お前と清之介の差はそれぐらいだよ。才能に嫉妬する暇があったら、少しくらい努力する素振りでもみせたらどうだい?」
言外に、今までお前がやってきたことは努力と呼ぶにも値しないと告げた八芽。今の正太郎にはその言葉はあまりにも厳しく聞こえたが、八芽からしたら、それは憎しみでも皮肉でもなく、真に正太郎のことを思っての一言だったのだ。
それが理解できないほど鈍感でも疎いわけでもない。しかし、納得して前向きに受け入れられるほど大人でもなかったのは確かだったようだ。正太郎は歯を食い縛ると、逃げるようにその場から去っていった。
「あっ、正太郎様!」
さつきが咄嗟に追いかけようと走り始めるが、
「放っておきな」
強い口調で止める八芽。
「こういう時に一人にさせてやるのが気遣いってもんだよ」
それを受けて、はい……、と小さくつぶやく。ならあんなに厳しいお言葉をかけなくてもよかったのでは、などと胸中に秘めるが、無論それを表に出せるはずもなく、ただただ不安そうな顔で正太郎の駆けていった方角を見つめるさつきであった。




