第八話 希望の国
ヴァルド奴隷市場からの脱出は順調に進んでいた。
ノワール率いる救出隊は、夜の闇に紛れながら街道から外れた荒野を進む。
救出された亜人達は百三十名以上。
犬族。狐族。猫族。兎族。鹿族。ドワーフ。そして十数名のエルフ。
誰もが疲弊していた。
長い拘束生活。十分な食事も与えられず、明日への希望も失っていた者達ばかりだ。
だからこそ彼らは戸惑っていた。
本当に助かったのか。夢ではないのか。今も疑っている。
先頭を歩くノワールは相変わらず無表情だった。
後方ではヴィオラが子供達へ話しかけている。
「大丈夫ですわ」
優しい声だった。
「もう追ってきません」
兎族の少女が不安そうに尋ねる。
「本当に?」
「ええ」
ヴィオラは微笑む。
「少なくとも今夜は」
その言い方が妙に現実的で逆に安心できた。
適当な慰めではない。事実だけを伝えている。
そんな印象だった。
翌朝。
救出された者達は一度休憩を取ることになった。
このままの速度なら黄昏の箱庭まであと三日。
今回の集団には子供も老人もいる。急がせるわけにはいかなかった。
エルフの少女は岩へ腰を下ろしていた。
相変わらず警戒している。
檻から出た今でも。誰も信じていない。そんな様子だった。
その隣へ誰かが座る。
ノワールだった。
「食べろ」
差し出されたのはパンだった。
エルフの少女は驚く。
「私に?」
「他に誰がいる」
相変わらず無愛想だった。
だが。悪意は感じない。
少女は少しだけ迷い、パンを受け取った。
温かかった。焼き立てではない。
それでも。
奴隷市場で与えられていた物とはまったく違う。
初めて涙が出そうになった。
「名前」
唐突にノワールが言った。
「え?」
「名前を聞いていない」
少女はしばらく黙る。
そして答えた。
「エルナ」
「そうか」
短い会話だった。
だが。それで終わりだった。
詮索もしない。過去も聞かない。
ノワールは立ち上がる。任務へ戻るために。
エルナはその背中を見つめた。
不思議な女性だと思った。
優しいわけではない。愛想もない。
だが。安心できる。
そんな存在だった。
その頃。
グラディス辺境侯国。
ヴァルド奴隷市場。
市場主であるベッカーは震えていた。
目の前には血の気を失った部下達。
空になった牢獄。壊された鍵。
そして大量の損失報告。
「百三十人だぞ!」
怒号が響く。
「百三十人消えたんだぞ!!」
誰も反論できない。損害は莫大だった。
しかも問題はそれだけではない。
机の上には黒い羽根が置かれている。
一枚だけ。
だが。その意味を理解する者達は青ざめていた。
「夜鴉……」
誰かが呟く。
ノワールの異名。
既に裏社会では噂になり始めていた。
気付けば情報が盗まれる。
気付けば標的が消える。
気付けば計画が崩れる。
正体不明の存在。
「報告は」
ベッカーが聞く。
部下が震えながら答えた。
「グラディス軍へ伝達済みです」
「辺境侯閣下にも!」
「そうか」
ベッカーは椅子へ沈む。
嫌な予感がしていた。奴隷が逃げたのではない。助け出されたのだ。
つまり敵がいる。組織的な敵が。
そして裏社会で最も恐ろしいのは剣を持つ敵ではない。
目的が分からない敵だった。
三日後。
黄昏の箱庭。
南門。そこには多くの住民が集まっていた。
フィアは朝から落ち着きがない。
「まだかな」
「もうすぐだろう」
フェンリスが答える。
「遅い」
「一般人基準だ」
「そっか」
フィアが納得する。
彼女自身なら一日未満で着く距離だ。
だが今回は違う。
救出された者達を連れている。急げない。
その時。見張り台から声が上がった。
「来たぞー!」
歓声が上がる。
フィアが飛び出した。神狼族らしい速度で。
フェンリスも苦笑する。
相変わらずだった。
荒野の先。
長い列が見える。救出隊だった。
ノワール。ヴィオラ。
そして救出された亜人達。
全員無事だった。
フィアは勢いよく飛び込んでいく。
「おかえり!」
ヴィオラが笑う。
「ただいま戻りましたわ」
ノワールは小さく頷く。
「任務完了」
短い。だがそれで十分だった。
フィアは子供達を見つける。
そして気付いた。
皆怯えている。当然だった。
知らない場所へ来たのだから。
「大丈夫だよ!」
フィアが笑う。
「ここ安全だから!」
子供達は不安そうなままだ。
だが。少しだけ表情が和らぐ。
何故だろう。
フィアにはそういう力があった。
やがて城門が見えてくる。
高い城壁。巨大な門。見張り塔。
救出された人々は立ち止まった。
言葉を失っている。
「凄い……」
ドワーフの男が呟く。
「本当に国だ……」
噂は聞いていた。
だが。実際に見るのとは違う。
エルナも見上げていた。
奴隷市場で聞いた噂。亜人を守る国。神狼王の国。
最初は信じていなかった。
だが。本当に存在していた。
門が開く。
その瞬間。さらに驚きが広がる。
賑やかな市場。笑い声。整った街路。獣人がいる。エルフがいる。竜人がいる。普通に。
日常として。皆暮らしている。
「何だ……ここは」
犬族の男が呆然とする。
誰も見下していない。怯えてもいない。差別もない。あまりにも異常だった。
グラディスで育った者達には。
中央広場。
そこでは悠真が待っていた。
周囲には軍団長達。
フェンリス。ラグナ。リリアーナ。ミレイア。エルシア。
各軍団の代表が揃っている。
救出された者達は緊張していた。
また値踏みされるのではないか。
また利用されるのではないか。
そんな不安がある。
悠真は全員を見回した。
そして静かに言う。
「よく来てくれた」
ざわめきが起きる。それだけだった。
説教もない。選別もない。条件もない。
「まずは休んでくれ」
悠真は続ける。
「話はその後だ」
エルナは呆然とした。
信じられなかった。こんな対応をされたことがない。
奴隷市場では商品だった。人間社会では下等種だった。
だが。ここでは違う。
一人の人間として扱われている。
その時だった。
リーファが前へ出る。
「医療区画へ案内します」
優しい笑顔。
さらにフィアが叫ぶ。
「ご飯もあるよ!」
ミレイアが呆れた顔をする。
「最初に言うことですか」
「重要だよ!?」
実際重要だった。
子供達が反応している。少しだけ笑顔が戻る。
その様子を見て。
エルナは思う。
もしかしたら。本当にここで生きていけるかもしれないと。
その日の夜。
中央塔。会議室。
ノワール達は作戦報告を行っていた。
救出成功。死者ゼロ。任務達成。
だが。空気は明るくない。
「次が来る」
セレスが言った。
全員が理解していた。
グラディスは黙っていない。奴隷商人も黙っていない。
今回の件で黄昏の箱庭は確実に認識された。
危険な敵として。
「面倒ですわね」
リリアーナが微笑む。
だが。その笑顔は少し楽しそうだった。
「敵も本気になりますわ」
フェンリスが腕を組む。
「望むところだ」
ラグナも頷いた。
悠真は窓の外を見る。
新しく救われた人々。増えていく仲間達。
守るべきものは確実に増えている。
そして。増えた分だけ敵も増える。
だが。それでも。後悔はなかった。
「守るぞ」
静かな声だった。
しかし強かった。
戦いは、新たな局面へ進もうとしていた。
フィアの存在感が一番強く感じるのは私だけでしょうか(笑)
彼女の存在に助けられています(笑)




