第十五話 神狼王
夕陽が荒野を赤く染めていた。
風牙の集落を出発した避難隊は既に遠く離れている。
老人達。子供達。負傷者達。
彼らは今も必死に歩き続けているはずだった。
黄昏の箱庭へ向かって。生き延びるために。
その後方。
小高い丘の上には二つの影だけが残されていた。
フェンリス。
そしてガルム。
二人の神狼族だけだった。
眼下には荒野が広がっている。
そしてその先。大量の土煙。
軍旗
鎧
騎兵
歩兵
弓兵
グラディス辺境侯国軍先鋒隊。
数は五百を超えていた。さらに後方には本隊。
合計三千を超える軍勢が迫っている。
普通の国家なら絶望的な戦力差だった。
だがフェンリスは微動だにしない。
腕を組みながら軍勢を見下ろしていた。
「団長」
ガルムが呟く。
「なんだ」
「久しぶりですね」
フェンリスは少しだけ笑った。
「そうだな」
転移してからずっと抑えてきた。
主の命令を守るため。新しい世界を知るため。警戒するため。
だが今は違う。
今回の命令は明確だ。
――一人も見捨てるな。
ならば。
この軍勢を通すわけにはいかなかった。
一方。
グラディス辺境侯国軍先鋒隊。
副将バルト・アイゼンは異変に気付いていた。
「止まれ」
号令が響く。
五百を超える兵士達が足を止める。
前方の丘。そこに二人の人影が見えた。
たった二人。
だが。だからこそ不自然だった。
「誰だ」
副官が目を細める。
それは獣人だった。
銀髪の男。
そして灰色の髪を持つ男。
二人とも異様な威圧感を放っている。
「まさか」
バルトが眉をひそめた。
脳裏に報告書が浮かぶ。
神狼族。
正体不明の超高位亜人。
隊長達を壊滅させた怪物。
「ここまでとは」
呟く。本能が警鐘を鳴らしていた。
危険だと。
目の前の存在は。
丘の上。
フェンリスはゆっくりと剣を抜いた。
白銀の刀身。夕陽を浴びて赤く輝く。
ガルムも剣を構えた。
そして。
フェンリスは前へ出る。
たった一歩。
それだけだった。世界が変わった。
轟ッ!!
凄まじい魔力が荒野を吹き抜ける。
空気が震える。
地面が軋む。
兵士達の顔色が変わった。
呼吸が苦しい。
膝が震える。
本能が告げていた。
逃げろ、と。
「なっ……」
「なんだこれは……」
兵士達が狼狽える。
馬達まで暴れ始めた。
神狼王。
フェンリス。
その威圧は存在そのものが災害だった。
バルトは歯を食いしばる。
「怯むなぁ!」
怒号が響く。さすがは副将。
並の兵ではない。
威圧の中でも立っている。
「たった二人だ!」
剣を抜いた。
「蹴散らせぇぇぇ!!」
五百を超える兵士達が一斉に突撃する。
荒野が揺れる。
地鳴りのような轟音。
普通なら止められない。
国家の軍勢。
死の波。
そのはずだった。
フェンリスが消えた。
兵士達にはそう見えた。
違う。
速すぎたのだ。
ドガァァァァァン!!
先頭の騎兵が吹き飛んだ。
馬ごと。
鎧ごと。
十メートル。
二十メートル。
地面を転がり続ける。
誰も理解できない。
次の瞬間には別の場所。また別の場所。さらに別の場所。
爆発が連続して起きているようだった。
兵士が宙を舞う。
槍が砕ける。
盾が吹き飛ぶ。
叫び声が連鎖する。
フェンリスは止まらない。
いや。
歩いているだけだった。
普通に。
ゆっくり。
まるで散歩でもするかのように。
その度に兵士が吹き飛ぶ。
誰も追えない。
誰も見えない。
「化物だ!」
悲鳴が上がる。
その時だった。
「余所見をするな」
低い声。兵士が振り返る。
目の前にはガルム。
灰狼の副隊長。
次の瞬間。
ガルムは柄頭で兵士の顎を砕き、そのまま後ろの二人を薙ぎ倒した。
実戦的
効率的
フェンリスと違う。
ガルムは戦争の達人だった。
指揮官を狙う。
陣形を崩す。
連携を潰す。
次々に兵士達が無力化されていく。
「隊列を維持しろ!」
「怯むな!」
叫んでも意味がない。
戦場は崩壊し始めていた。
そして。
バルト・アイゼンはついにフェンリスと相対する。
周囲には倒れた兵士達。
地面は砕け。
砂塵が舞っている。
副将は剣を構えた。
震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
久しぶりだった。
これほど強い相手は。
「貴様が神狼族か」
「黄昏の箱庭、第一席、フェンリスだ」
短い返答。
バルトは笑った。
「名乗るか」
「死者への礼儀だ」
その瞬間。
バルトが飛び出した。
速い。
人類としては間違いなく上位。
副将の名に恥じない剣技。
一閃
二閃
三閃
凄まじい連撃がフェンリスへ襲い掛かる。
だが。
届かない。
全て躱される。
半歩。一歩。
身体を僅かに動かすだけ。
「くっ!」
さらに踏み込む。
奥義。魔力解放。
剣が蒼く輝いた。
渾身の一撃。
轟音と共に振り下ろされる。
フェンリスは初めて剣を構えた。
ガギィィィン!!
衝撃波。地面が割れる。
周囲の兵士達が吹き飛ぶ。
バルトの目が見開かれた。
止められた。
全力を。片手で。
フェンリスは静かに言う。
「強いな」
それは嘘ではなかった。
今までの兵士達より遥かに強い。
だが。届かない。
決定的に。
「だが」
フェンリスの魔力が膨れ上がる。
赤い瞳が輝く。
神狼王の本気。
「主の敵だ」
次の瞬間。
剣閃
ただ一撃。それだけだった。
世界が白く染まる。
バルトには見えなかった。
避けられなかった。理解すらできなかった。
視界が傾く。膝が崩れる。
そして。
最後に見たのは。
静かに剣を下ろす神狼王の姿だった。
「見事だった」
その言葉を最後に。
バルト・アイゼンは力尽きた。
副将戦死。
その事実が戦場を変えた。
「副将が……」
「やられた……」
「嘘だろ……」
恐怖が広がる。
副将は英雄だった。強者だった。絶対の存在だった。
その男が死んだ。
一撃で。
兵士達の心が折れる。
「撤退!」
誰かが叫んだ。
「撤退だぁぁぁ!」
崩壊だった。
兵士達は一斉に逃げ出す。先鋒隊は潰走した。
それは後方の本隊にも伝わる。
神狼族二人。
副将戦死。
先鋒壊滅。
意味が分からない。理解できない。だからこそ恐怖は広がった。
そして。本隊までもが進軍を停止した。
夕暮れ。
戦場には静寂だけが残る。
フェンリスは剣を納めた。
ガルムが近付いてくる。
「終わりました」
「ああ」
避難民達はもう十分離れている。追いつかれることはない。
主の命令は守った。一人も見捨てなかった。
フェンリスは沈む夕陽を見る。
そして。小さく呟いた。
「お待ちください、主」
神狼王は振り返る。
守るべき人々が待つ場所へ。
黄昏の箱庭へ向かって。




