第十四話 神狼王の決断
風牙の集落を出発した避難隊は、夜明けと共に荒野を進んでいた。
先頭にはフェンリス。その後方にはレイナ率いる護衛部隊。中央には村人達。最後尾に輸送隊と治療班。
避難民は八十名を超えていた。
風牙の集落の住民。白耳の集落の生存者。そして身寄りを失った子供達。
誰一人として戦える状態ではない。
老人もいる。負傷者もいる。
当然ながら進軍速度は遅い。
一般人の徒歩移動なら黄昏の箱庭まで二日。
馬なら一日。
フィアなら半日。
フェンリスなら数時間。
しかし今は違う。
最も遅い者に合わせなければならない。
それが避難だった。
昼過ぎ。
フィアが偵察から戻ってきた。
着地と同時にフェンリスの表情が変わる。
フィアが本気の顔をしていたからだ。
「フェンリス様」
「報告を」
「追いつかれる」
短い一言だった。
周囲の空気が凍る。
レイナが地図を広げた。
「距離は」
「半日ない」
「敵数は」
「先鋒五百以上」
フィアの声は重かった。
「本隊含めたら三千以上」
沈黙。
風だけが吹き抜ける。
レイナは計算を始めていた。
移動速度、避難民数、負傷者、現在地、敵の進行速度。
全てを考慮して。
そして結論を出す。
「間に合いません」
誰も反論できなかった。
事実だからだ。
「今日の日没までに追いつかれます」
住民達の顔色が変わる。
絶望が広がる。子供達ですら何かを察していた。
その時だった。
「私達が残ります」
そう言ったのはレイナだった。
全員が振り向く。
「レイナ」
「避難民は進めてください」
レイナは冷静だった。
いつものように。
「私とラグナ軍団の者達が殿を務めます」
フィアが即座に反対する。
「駄目!」
「しかし」
「駄目!」
珍しく強い口調だった。
「レイナまで残ったら誰が避難民守るの!」
レイナは黙る。
正論だった。
避難中の統率はレイナが担っている。
失えば被害は大きい。
すると今度はガドが立ち上がった。
「ならワシらが残る」
老人達も頷く。
犬族。鹿族。狐族。
皆覚悟を決めた顔をしていた。
「子供達だけ逃がせ」
「ガドさん」
フィアが悲しそうな顔をする。
だが老人達は本気だった。自分達が囮になる。それが最善だと思っている。
悠真なら絶対許さない。
だからこそ今ここで決めなければならない。
フェンリスは静かに全員を見渡した。
そして。結論を出した。
「フィア」
「え?」
「避難民を連れて行け」
一瞬。
誰も意味が分からなかった。
そして数秒後。
フィアの顔色が変わる。
「待って」
フェンリスは構わず続ける。
「レイナ」
「はい」
「避難指揮を引き継げ」
「……承知しました」
レイナも気付いたらしい。
何を言おうとしているのか。
「フェンリス様」
フィアの声が震える。
「残るの」
フェンリスは頷いた。
当然のように。
「私が時間を稼ぐ」
完全な沈黙。避難民達も言葉を失っていた。
敵は三千。
フェンリスは強い。圧倒的に強い。
だが。数が違う。
戦争は個人の武勇だけでは決まらない。
それを皆知っていた。
「駄目です」
フィアが前へ出る。
強い口調だった。フェンリスへそんな話し方をするのは珍しい。
「駄目だよ」
「フィア」
「主様そんな命令してない!」
涙すら浮かんでいる。
「一人も見捨てるなって言っただけ!」
「だからだ」
フェンリスは静かに答えた。
フィアが息を止める。
「私は誰も見捨てない」
「……」
「避難民も」
「お前達も」
「箱庭も」
「全部守る」
その声に迷いはなかった。
神狼王フェンリス。
第一軍団長。
黄昏の箱庭最強の戦士。
その覚悟がそこにあった。
レイナが目を閉じる。
理解していた。これが最善だと。認めたくなくても。
実力、速度、戦力。
全てを考慮した結果。
最も長く時間を稼げるのはフェンリスしかいない。
「どれだけ時間を」
レイナが聞く。
「明日の昼まで」
周囲が息を呑む。
半日ではない。数時間でもない。丸一日近く。
三千の軍勢を相手に。
一人で。
「無茶です」
「承知している」
「死にます」
フェンリスは少し笑った。
「では死なないようにする」
フィアが泣きそうな顔になる。
その頃。
グラディス辺境侯国軍先鋒隊。
先頭を進む男がいた。
副将。バルト・アイゼン。
グラディスでも名の知られた将軍である。
年齢四十六。
数多くの亜人討伐を経験してきた歴戦の男。
「もうすぐか」
「はい」
副官が答える。
「斥候報告では避難を開始しています」
バルトは鼻を鳴らした。
「逃がすな」
「ですが女子供ばかりかと」
「関係ない」
即答だった。
「辺境侯閣下の命令だ」
「南部を浄化する」
その言葉に疑問を持つ者はいない。
彼らにとっては正義だからだ。
亜人は劣等種。人類の敵。
そう教えられてきた。
だから何の躊躇もない。
その先に何が待つのかも知らず。
夕刻。
フェンリスは丘の上に立っていた。
後方には避難隊。徐々に小さくなっていく。
フィアは何度も振り返っている。
レイナが強引に連れて行かなければ戻っていただろう。
フェンリスの隣にはガルムが立っていた。
フェンリス直属の近衛副隊長
寡黙な神狼族
黒銀色の短髪
灰色の狼耳
鋭い金色の瞳
190cm前後
無駄のない体格
外見年齢30前後
「団長」
「何だ」
「私も残ります」
予想通りだった。
フェンリスは少しだけ苦笑する。
「命令違反だ」
「承知しています」
「主に叱られるぞ」
「その時は謝ります」
全く反省していない。
フェンリスは小さく笑った。
そして。
前を見る。遥か先。地平線の向こう。
砂煙。大量の人影。鎧の反射。旗。
グラディス辺境侯国軍。
ついに来た。
フェンリスは腰の剣へ手を掛ける。神狼王の魔力が静かに溢れ始めた。
ガルムも剣を抜く。
二人だけ。たった二人。
だが。その背後には守るべき者達がいる。
だから退けない。
フェンリスは静かに呟いた。
「主」
その姿はどこか誇らしかった。
「命令通り」
白銀の剣が抜き放たれる。
「一人も見捨てません」
夕陽に照らされた丘の上。
神狼王フェンリスは。
三千を超える軍勢を迎え撃つため、一歩前へ踏み出した。




