第十三話 消えゆく故郷
風牙の集落に緊張が走っていた。
見張り台から確認された敵軍勢。
グラディス辺境侯国軍。
推定三千。
その情報は瞬く間に集落中へ広がっていた。
老人達は沈黙し。母親達は子供を抱き寄せ。若い戦士達は武器の手入れを始める。
誰もが理解していた。今度こそ来たのだと。
白耳の集落を滅ぼした軍勢が。
自分達の村へ。
「思ったより早かったな……」
集落中央の広場でガドが呟く。
年老いた犬族の村長の表情は暗い。
その周囲には各種族の代表達が集まっていた。
狐族。鹿族。猫族。兎族。そして犬族。
本来なら同じ村で暮らすことすら珍しい種族達。
だが今の南部にはそんなことを言っている余裕はない。
生き残るために集まり。助け合い。なんとか今日まで生き延びてきた。
しかしそれも終わろうとしていた。
その時だった。
見張り台から歓声が上がる。
「来た!」
「神狼族だ!」
「箱庭の人達だ!」
村人達が一斉に北を見る。
荒野の向こう。砂煙を上げながら近づく一団が見えた。
速い。異常なほど速い。
普通の兵士なら二日かかる距離を半日で到達している。
先頭を走るのはフィアだった。
長い髪をなびかせながら一気に集落へ飛び込んでくる。
「無事!?」
第一声がそれだった。
「フィアさん!」
子供達が駆け寄る。
フィアはその場でへたり込みそうになる。
「よかったぁ……」
本気で心配していたのだろう。
後ろからフェンリス達も到着した。
百名を超える部隊。
神狼族。竜人。治療班。輸送部隊。
風牙の集落の住民達は圧倒されていた。
今まで見たこともないほど装備の整った集団だったからだ。
ガドが前へ出る。
「わざわざ来てくれたか」
フェンリスは短く頷いた。
「主命です」
その言葉だけで十分だった。
「避難を開始します」
集落がざわつく。ついにその時が来た。
村を捨てる時が。生まれ育った故郷を。家族の墓を。積み重ねた日々を。
全て置いていく時が。
ガドは静かに目を閉じる。
長い年月を過ごした村だった。
若い頃。共に狩りをした仲間もいる。結婚した日も。子供が生まれた日も。
全てこの村だった。
だが。
それでも。
生きなければならない。
「集落全員へ伝える」
ガドは立ち上がった。
「避難を開始する」
その言葉と共に村中が動き出した。
荷物をまとめる者。子供を連れて来る者。家畜を集める者。泣きながら家へ戻る者。
様々だった。
フェンリス達も手伝いに入る。
フィアは子供達を担当していた。
「ほらほら!」
小さな兎族の女の子へ笑いかける。
「泣かない!」
「だって……」
「大丈夫!」
フィアは胸を叩いた。
「箱庭にはもっとおいしいご飯あるから!」
一瞬だけ沈黙。
そして女の子が聞く。
「本当?」
「本当!」
その話になると説得力があった。
実際に三兄妹が証明している。
すると周囲の子供達まで集まってきた。
「パンある?」
「ある!」
「肉は?」
「ある!」
「毎日?」
「毎日!」
その答えに大人達まで驚いていた。
南部では信じられない話だからだ。
その一方。
レイナは現実的な作業を進めていた。
「高齢者を優先してください」
「歩行困難者はこちらへ」
「荷物は最低限で構いません」
冷静かつ正確。
治安維持隊長としての能力が発揮されている。
風牙の集落の住民達も徐々に落ち着きを取り戻していった。
しかし。
全員が避難に賛成しているわけではなかった。
集落外れ。小さな墓地の前で立ち尽くす鹿族の老人がいた。
「行きません」
頑固な声だった。
レイナが説得する。
「危険です」
「分かっています」
「なら」
「それでも」
老人は首を横に振る。
「妻が眠っている」
誰も言葉を返せなかった。
墓石は古かった。何年も通い続けたのだろう。
老人は震える手で墓石を撫でる。
「ここにいると言った」
「約束した」
風牙の集落にはそういう人が何人もいた。
家族を失った者。仲間を失った者。それでも残り続けた者。
死ぬと分かっていても故郷を離れられない人間は存在する。
種族に関係なく。
フィアも困った顔をしていた。
そんな時だった。フェンリスが老人の前へ立つ。
「失礼する」
そう言って墓石へ手を添えた。
皆が驚く。
神狼王が跪いたのだ。
フェンリスは静かに言った。
「必ず守る」
老人が顔を上げる。
「何をじゃ」
「墓も」
「思い出も」
そして。
「貴方の居場所も」
静かな声だった。
だが不思議な説得力があった。
老人はしばらく黙り込む。
やがて。小さく頷いた。
「信じよう」
避難は続く。
夕方になり。やがて日が沈み始める。
その頃にはほとんどの住民が出発準備を終えていた。
だが。
問題も発生する。斥候が戻ってきたのだ。
「報告!」
全員が振り返る。
犬族の若者だった。
息を切らしている。
「敵軍確認!」
空気が変わった。
「どこだ」
フェンリスが問う。
「北方!」
「距離は」
「このままの行軍速度なら一日」
レイナの表情が険しくなる。
近い。予想より近い。
「こちらは?」
「避難民込みなら箱庭到着まで二日」
つまり。
そのままでは追いつかれる。
広場に緊張が走る。
だがフェンリスは冷静だった。
「予定通り進める」
周囲が驚く。
「しかし」
「問題ない」
断言だった。
「我々は主命を受けている」
神狼王の瞳に揺らぎはない。
「一人も見捨てない」
その言葉に住民達の表情が変わる。
不安、恐怖、絶望。
それらが少しずつ薄れていく。
代わりに生まれたのは希望だった。
もしかしたら。本当に助かるかもしれない。
もしかしたら。生き延びられるかもしれない。
その夜。
風牙の集落は最後の夜を迎えた。
明日になれば村を離れる。もう二度と戻れないかもしれない。
誰もが故郷を見つめていた。
そして北では。
グラディス辺境侯国軍が進軍を続けている。
両者の距離は着実に縮まっていた。
戦いはまだ始まっていない。
だが。
避難民達にとっては、すでに運命を懸けた戦いが始まっていた。




