第十一話 守るべき者達
会議室に重い沈黙が流れていた。
長机の中央には南部一帯の地図が広げられている。
風牙の集落
白耳の集落跡地
黄昏の箱庭
そして北方から進軍してくるグラディス辺境侯国軍
赤い印で示された敵軍の位置は、誰の目にも異様な存在感を放っていた。
推定三千。
それはこれまで遭遇した部隊とは比較にならない。
間違いなく本隊。戦争のための軍勢だった。
「情報を整理します」
レイナが静かに口を開いた。
全員の視線が集まる。
「グラディス辺境侯国軍の規模は約三千」
「進行方向は南西」
「現在位置から推測するに、このまま進めば三日後には風牙の集落周辺へ到達します」
短い報告だった。
しかし十分だった。
風牙の集落に残された猶予は三日。
それだけしかない。
悠真は地図を見つめる。
村人六十人。
白耳の集落からの生存者十九人。
老人。子供。怪我人。
誰一人として戦える状態ではない。
「避難は可能か」
悠真が尋ねた。
レイナは僅かに沈黙した。
そして答える。
「可能です」
「なら」
「ただし」
言葉を遮ったのはレイナだった。
「全員無事を保証できません」
会議室が静まり返る。
「理由は?」
「距離です」
レイナが地図を指差す。
「風牙の集落から黄昏の箱庭まで約二日」
「怪我人がいる」
「老人もいる」
「幼い子供もいる」
そして何より。
「追われる可能性があります」
それが現実だった。
軍隊と避難民。速度が違う。
もし発見されれば逃げ切れる保証はない。
「軍を出すか」
ラグナが口を開いた。
「護衛を付ければ成功率は上がります」
「何人必要だ」
「最低二百」
今度は別の問題が出てくる。
黄昏の箱庭にも守るべき住民がいる。
むやみに戦力を減らすのは危険だった。
「主」
フェンリスが静かに言った。
「私が参ります」
予想通りだった。
神狼王である彼が行けば避難は成功するだろう。
だが。悠真は首を横に振った。
「お前一人じゃない」
「はい?」
「フィアも行け」
フィアが目を丸くする。
「私?」
「子供達の対応はお前の方が上手い」
「まぁそうだけど……」
少し照れている。
フェンリスより向いている自覚はあるらしい。
するとラグナも口を開く。
「ならばレイナも同行させます」
レイナは黙って頷いた。異論はないようだった。
しかしここで。
今まで静かだったリリアーナが微笑んだ。
嫌な予感がする笑みだった。
「本当にそれでよろしいのでしょうか?」
悠真が眉をひそめる。
「何がだ」
「避難ですよ」
リリアーナは指先で地図をなぞる。
「風牙の集落を助ける」
「白耳の生存者も保護する」
「とても素敵なお話ですわ」
言葉とは裏腹に瞳は笑っていない。
「続けろ」
「その次は?」
沈黙。会議室が静まる。
リリアーナだけが冷静だった。
「狐族の村が助けを求めてきたら?」
「鹿族は?」
「猫族は?」
「豹族は?」
「兎族は?」
誰も口を開かない。だが全員が思っていた。
風牙の集落だけでは終わらない。絶対に。
「白耳の集落が滅びました」
リリアーナは静かに続ける。
「なら次もあります」
「その次も」
「さらにその次も」
ゆっくりと。確実に。
「どこまで救いますか?」
それは難しい質問だった。
会議室にいる誰も正解を持っていない。
悠真も同じだった。
だが。フィアは違った。
「助けられるなら助けたい」
その一言だった。
会議室の空気が少し変わる。
「フィア」
レイナがたしなめる。
だがフィアは引かなかった。
「無理なのは分かるよ」
「でも」
「見捨てたくない」
その言葉はあまりにも単純だった。
だからこそ重かった。フィアは実際に見てきたのだ。
焼かれた村を。
泣いている子供を。
親を失った者達を。
だからこそ言えた。
「主様」
フィアは悠真を見る。
黄金色の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「助けたいよ」
まるで子供のような言葉だった。
だが。その場にいる誰よりも純粋だった。
悠真は目を閉じた。
日本にいた頃を思い出す。
もしニュースで同じ映像を見たら。可哀想だと思うだろう。助かれば良いと思うだろう。
だが。
その判断の責任を負うことはない。
今は違う。助けると決めれば責任が生まれる。
食料も。
住居も。
水も。
仕事も。
全て背負うことになる。
本来なら慎重に考えるべきなのだろう。
それが王だ。
だが。
悠真は諦めたように笑った。
「俺さ」
全員が顔を上げる。
「王様向いてないかもしれない」
突然の言葉だった。
フィアがきょとんとする。
ラグナが困惑する。
リリアーナだけが少し面白そうな顔をした。
「前の世界じゃただの会社員だったんだ」
「主?」
フェンリスが眉をひそめる。
悠真は続けた。
「だから計算とか苦手なんだよ」
本当は得意だった。
ゲームでは世界一だった。
それでも。今は違う。
数字ではない。人間だ。
「でもさ」
悠真は地図を見る。
風牙の集落。白耳の生存者。守るべき人々。
「助けられるのに見捨てるのは嫌だ」
沈黙。誰も言葉を挟まない。
悠真は一つ息を吐いた。
そして決断する。
「保護する」
会議室が静まる。
「風牙の集落」
「白耳の生存者」
「希望者全員」
フィアの顔が輝いた。
フェンリスは目を閉じる。
ラグナも頷いた。
レイナだけが静かに問い掛ける。
「後悔しませんか」
その言葉に悠真は少し笑った。
どこかで聞いた台詞だった。
兵士達を見逃した時。レイナは確かに言った。
後悔するかもしれません
そして。
実際に後悔した。だから今度は逃げない。
「後悔するかもしれない」
悠真は認める。
「でも」
「何もしなかった後悔の方が大きそうだ」
レイナはしばらく黙っていた。
そして深く頭を下げる。
「承知しました」
その瞬間。会議室の空気が変わった。
方針が決まったのだ。
フェンリスが立ち上がる。
「主命を確認します」
「頼む」
「風牙の集落を保護」
「白耳の生存者を保護」
「希望者を黄昏の箱庭へ避難させる」
悠真は頷いた。
「一人も見捨てるな」
神狼王の目が僅かに細められる。
それは戦士の顔だった。
「御意」
フィアも立ち上がる。
「任せて!」
レイナも続く。
「避難経路を選定します」
ラグナは軍勢配置を考え始める。
リリアーナはいつもの不敵な笑みを浮かべた。
黄昏の箱庭が動き出す。
その決断が正しいかはまだ分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
悠真はついに選んだのだ。
傍観者ではなく。
王として。守ることを。
そしてその夜。
グラディス辺境侯ゼルバルト・グラディス率いる討伐軍は、さらに南へ進軍を続けていた。
黄昏の箱庭と。
グラディス辺境侯国。
二つの勢力が本格的に衝突する日は、もう遠くなかった。




