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第九話 血の臭い

「血の臭いです」


フェンリスの低い声が見張り台に響いた。

風牙の集落を見下ろす高台。そこにいる全員が遠方の砂煙を見つめていた。

悠真には見えない。


ただ人影らしきものが動いているようにしか見えなかった。

しかしフェンリスやフィアは違う。

神狼族の感覚は人間とは比較にならない。


「距離は?」


レイナが問う。


「まだかなりあります」


フェンリスは目を細める。


「ですが妙です」


「何が?」


「軍隊の動きではない」


それは予想外の答えだった。

人間の集団。血の臭い。

てっきり軍勢かと思った。


「どういうことだ?」


ラグナが尋ねる。


「逃げている」


フェンリスが答える。


「追われているような動きです」


沈黙。

その瞬間。フィアが立ち上がった。


「見に行く」


「私も行きます」


レイナも即答する。

悠真は少し考えた。

そして頷いた。


「頼む」


「はい」


次の瞬間。

二人の姿が消えた。


神狼族と竜人。

トップクラスの機動力を持つ二人が全力で走る。

風だけが残った。


ガドが静かにため息を吐く。


「やはり来たか……」


その呟きを悠真は聞き逃さなかった。


「ガドさん」


「なんじゃ」


「人間が来ることは珍しくないのか」


老人は苦笑した。

その笑みは諦めに満ちていた。


「珍しくなどない」


「……」


「珍しかったら、ここまで村が減るものか」


悠真は言葉を失った。

確かにそうだ。この辺りには滅んだ集落の跡がいくつもあった。

つまり。これは日常なのだ。

南部の。獣人達の。


二時間後。

フィア達は戻ってきた。


しかし、その姿を見た瞬間。

全員の表情が変わった。

フィアが一人の少女を背負っていたからだ。


兎族だった。血塗れだった。意識もない。

後ろには十数人の獣人達。皆傷だらけだった。

年寄り。女。子供。

歩くのもやっとという者ばかり。


村人達がざわめく。


「まさか……」


「白耳の集落か……?」


ガドが呆然と呟いた。

フィアの顔は怒りで歪んでいた。


「やられた」

普段の明るさは欠片もない。


「あそこ……もう駄目」


風牙の集落の空気が凍り付いた。

集会所へ生存者達が運び込まれる。

傷の手当。食事。水の配給。

黄昏の箱庭から持ってきた救急用品も使われた。


しばらくして。

兎族の老人が目を覚ました。

ガドが近付く。


「誰がやった」


返答は一言だった。


「人間だ」


やはり。悠真は拳を握った。

老人は続ける。


「三日前」


「三日前……」


人間を見逃した直後だ。

嫌な予感がする。


「何があった」


老人の目が曇る。

まるで悪夢を思い出しているようだった。


「突然来た」


「人間の兵士達が」


「何人いた」


「百人以上」


周囲が静まり返る。

風牙の集落の戦士で十数人。

勝負にならない。


「理由は?」


悠真が尋ねる。

すると老人は笑った。乾いた笑いだった。


「理由?」


その目に怒りが宿る。


「獣人だからだ」


集会所が沈黙する。

どこかで聞いた言葉だった。

そう。三兄妹を追っていた兵士も同じことを言っていた。

老人は震える手で話を続ける。


「村を囲まれた」


「若い男達は殺された」


「抵抗した者も殺された」


「女、子供は連れていかれた」


フィアの爪が掌へ食い込む。

血が滲んでいた。


「何人……」


フィアが聞く。

老人は答えない。

いや。答えられないのだろう。

代わりに涙を流した。それだけで十分だった。


しばらくして。

別の生存者が口を開く。

熊族の男だった。全身に火傷を負っている。


「名前を聞いた」


「名前?」


「グラディス」


集会所がざわつく。


「グラディス辺境侯国」


レイナの表情が険しくなる。

フェンリスも黙り込んでいた。


悠真の脳裏には一人の男が浮かぶ。

逃がしたあの隊長。震えながら撤退していった男。

確証は無い。だが嫌な予感だけは強まる。


その日の夜。

風牙の集落では緊急会議が開かれた。

参加者はガドを始めとした集落代表達。そして悠真達。

会議の空気は重かった。


「次はここじゃ」


ガドが言う。

誰も反論しなかった。生存者達も頷いている。


「白耳の集落が滅びた」


「次は風牙じゃ」


「その次は別の村」


「そうして消えていく」


あまりにも淡々とした口調だった。

何度も見てきたのだろう。同じ光景を。


「獣王連邦へ避難は?」


悠真が聞く。

ガドは首を振る。


「無理じゃ」


「何故」


「年寄りも子供もおる」


移動だけで死人が出る。

それが現実だった。


誰も逃げられない。ただ滅びを待つだけ。

そんな空気が流れていた。


悠真は周囲を見る。

痩せた村人達。怪我人。泣いている子供。そして諦めた顔をした老人達。

日本にいた頃なら。こんな光景を見ることはなかった。

だが今は違う。


見てしまった。

知ってしまった。


「主」


フェンリスが静かに言った。


「何だ」


「どうしますか」


全員の視線が悠真へ向く。

どうするか。


助けるのか。見捨てるのか。


判断を求められている。


王として。


悠真はしばらく黙った。

そして言う。


「まずは箱庭へ帰る」


村人達の顔が曇る。

だが悠真は続けた。


「帰って考える」


「……」


「全員を守る方法を」


ガドは何も言わなかった。

ただ悠真を見つめている。

試しているようだった。本気かどうかを。


その夜。

悠真は眠れなかった。

集会所の外へ出る。

空には星が見える。

そして村には静寂があった。


だが。

その静けさの中に恐怖が混じっている。

誰もが知っている。

明日かもしれない。来週かもしれない。

人間達が来る日を。


その時。

フェンリスが隣へ来た。


「眠れませんか」


「お前もだろ」


「まぁ」


珍しく苦笑した。

しばらく沈黙。

やがてフェンリスが口を開く。


「主」


「ん?」


「助けたいのですね」


悠真は空を見上げた。

そして答える。


「ああ」


迷いはない。

助けたい。見捨てたくない。

それだけははっきりしている。


だが同時に。

助ける方法が分からなかった。

風牙の集落。白耳の集落の生存者。

そして他にもある無数の小さな村。

もし全員を受け入れたら、黄昏の箱庭は耐えられるのか。


食料は。

住居は。

未来は。


答えはまだ無い。

だが一つだけ確かなことがあった。

南部は想像以上に酷い。


そして。

その現実からもう目を背けることはできなかった。

遠く離れたグラディス辺境侯国では、ゼルバルト・グラディスの命令によって討伐軍の準備が始まっていた。

彼らは知らない。黄昏の箱庭が動こうとしていることを。


そして悠真達も知らない。

自分達の決断が、もうすぐ南部全体の運命を変えることになるのを。

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