第九話 名前を消せる男
加納誠は、階段の踊り場で待っていた。
事務所の中では、まだ紙をめくる音がしていた。林美沙の声。大垣修平の咳。金斗満が何かを乱暴に言い、誰かが小さく笑う声。
その全部が、薄い扉の向こうで生活の音になっていた。
加納は封筒を懐に入れたまま、西野を見た。
「ここでは話せません」
「なら、どこで話す」
「近くに貸本屋があります。今はもう、ほとんど開いていません」
「ほとんど、か」
「店主が耳を悪くしています」
「耳が悪い人間ほど、よく聞いてることがある」
加納は少し困った顔をした。
「そういうことを言うから、市役所の人に見えないんです」
西野は答えなかった。
二人は並んで歩かなかった。
西野が先に階段を下り、金物屋の店先を抜けた。戸車、錆びた釘、薄い薬缶。加納は少し遅れて出てきた。慣れていない距離の取り方だった。人目を避けようとして、かえって目立つ。
西野はそれを直さなかった。
九条の路地は、夕方の前の鈍い時間に沈んでいた。工場の機械音が遠くから響き、電柱には「国家保安法強化反対」のビラと、「赤色分子を追放せよ」の貼り紙が、同じ糊で貼られていた。
西野はガラス戸の魚屋の前で足を止めた。
背後が映る。
誰もいない。
いや、一人いた。
救援会の事務所にいた老教師風の男が、向かいの煙草屋で新聞を読んでいた。ページをめくる間隔が規則正しすぎる。
西野は歩き出した。
加納はそれに気づいていない。
気づかない方が自然だった。
気づけば、生き方が変わる。
この青年は、まだそこまで汚れていなかった。
貸本屋は、商店街の外れにあった。
看板には「春灯堂」とある。春の字だけが、雨で滲んだように薄くなっていた。棚には古い雑誌、児童書、貸本漫画、参考書が詰まっている。入口横には「東側出版物の持込を禁ず」と手書きの紙が貼られていた。
そのすぐ下に、誰かが鉛筆で小さく書き足していた。
本に国境はない。
さらにその下に、別の手でこうあった。
持ってる人間には住所がある。
西野はその文字を見た。
紀子が言いそうな言葉だった。
店の奥に、老人が座っていた。毛糸の帽子をかぶり、耳に補聴器をつけている。西野たちを見ると、何も聞こえていないふりをして、手元の新聞に目を落とした。
加納は店のさらに奥、貸本の修理台がある小部屋へ入った。
西野も続いた。
部屋には糊の匂いがした。古紙、黴、油、古いインク。壁には昭和の探偵小説の表紙が並び、その隣に、明らかに東側の児童書が数冊、紙袋に包まれて隠すように置かれていた。
『ぼくらの共同住宅』
『人民鉄道の一日』
『雪の日のドゥルージナ』
救援会の事務所で見た本と同じ系列だった。
加納は封筒を机に置いた。
「僕は、あなたを信じていません」
最初にそう言った。
西野は加納を見た。
「それにしては、よくここへ呼んだな」
「信じてるんじゃありません」
加納の声はかすかに震えていた。
「順番が来たから、渡しているだけです」
「誰の順番だ」
加納は少し迷った。
それから言った。
「藤堂さんの」
藤堂鶴彦。
その名は、小さな部屋の湿った空気の中で、刃物のように乾いていた。
西野は表情を変えなかった。
「藤堂を知っているのか」
「知っている、とは言えません。直接会ったのは二度です。顔も、本名も、本当かどうか分からない。でも、僕らの何人かは、あの人から言葉を預かっています」
「僕ら」
「救援会の中の、さらに一部です。全員じゃありません」
「大垣もか」
加納は首を振った。
「あの人は違います。たぶん」
「たぶんで動くのか」
「たぶんでしか動けない時があります」
西野は黙った。
加納は封筒を開けた。
中には紙が一枚だけ入っていた。上等な紙ではない。救援会で使う藁半紙でもない。無地の薄い紙。
加納はそれを西野には渡さなかった。
机の上に置き、自分の指で押さえたまま読むように見せた。
そこには短く書かれていた。
民生局。
名簿から名を消す男。
山下の後に来る者。
九条へ導け。
西野は紙を見た。
「俺の名前はない」
「聞いていません」
加納は言った。
「藤堂さんから、あなたの名前は聞いていませんでした。民生局の窓口に、名前を消せる男がいる、とだけ」
「名前を消す男」
「山下さんが死んだ後、その人が救援会の周辺に来る。名簿から子どもの名前を消す。紙を公安へ渡さない。そう聞いていました」
西野は紙から目を離した。
「山下は何を運んでいた」
「僕にも全部は」
「全部でなくていい」
加納は息を整えた。
「山下さんは、西成の日雇い労組と救援会の間をつなぐ役でした。被災者の身寄り、労組の寝泊まり先、学生の連絡先。そういうものを集めていました」
「誰に頼まれて」
「藤堂さんだと思っていました」
「思っていた」
加納は唇を噛んだ。
「死んだからです。山下さんは、用が済んだから殺されたのかもしれない。僕らの誰かが売ったのかもしれない。公安かもしれない。東側かもしれない。もう、誰の線だったのか分からない」
声が若かった。
若いということは、まだ絶望に慣れていないということだった。
西野は言った。
「分からないまま、俺に話しているのか」
「話さない方が安全です。でも、話さなければ次に誰が死ぬか分かりません」
「自分か」
「それでもいいとは言いません」
加納は西野をまっすぐ見た。
「怖いです」
その言葉は、強かった。
強がらなかったからだ。
「でも、怖いから黙るのは、もっと嫌です」
外を市電が通った。窓ガラスが細かく震えた。
西野は、加納の手を見た。
鉛筆だこ。インクの染み。指の節に小さな傷。
武器を持つ手ではない。
紙を持つ手だ。
だが、人は紙で死ぬ。
「藤堂はどこにいる」
加納は首を振った。
「知りません」
「嘘なら下手だ」
「本当です。僕は居場所を知りません。知っていたら、たぶんもう捕まっています」
「では、なぜ俺に接触した」
「次の言葉を渡すためです」
「言葉」
加納は封筒の内側から、さらに小さな紙片を出した。
今度は、西野に渡した。
西野は受け取った。
九条 朝日印刷所
明夜十九時
活字の下へ
それだけだった。
西野は紙片を折った。
「朝日印刷所」
「救援会のビラを刷っている場所です。明日の夜、追悼集会のビラを刷ります。そこへ来てください」
「誰に会える」
「分かりません」
「何も分からないんだな」
加納は少し笑った。
笑ったというより、そうでもしないと声が崩れる顔だった。
「西野さんは、分かっているんですか」
西野は答えなかった。
加納は続けた。
「僕は東を信じてるわけじゃありません。東京のことも、人民なんとかという言葉も、正直よく分からない。救援会の古い人たちが、人民暦とか総括とか言うたびに、少し気持ち悪いと思います」
西野は黙って聞いていた。
「でも、西を信じろと言われても、僕らの名前はすぐ公安に渡る。子どもが本を集めただけで、名簿になる。朝鮮の人を助けたら赤と言われる。統一と言えば危険と言われる」
加納は机の上の本を見た。
『雪の日のドゥルージナ』の青い表紙が、紙袋から少しだけ出ていた。
「東が正しいとは思いません。けど、西が自由だと言うなら、まず僕らの名前を公安に渡さないでください」
それは、演説ではなかった。
もっと小さく、もっと厄介なものだった。
訴えだった。
西野は言った。
「名前を書かなければ、助けられないこともある」
「知っています」
「名前を書けば、捕まることもある」
「それも知っています」
「なら、どちらを選ぶ」
加納はしばらく黙った。
「その人に聞きます」
「誰に」
「僕を捕まえる人に」
西野は、ほんの少しだけ加納を見る目を変えた。
加納は気づかなかった。
「役所では紙さえあれば、理由はいらない」
「だから、役所が怖いんです」
加納はそう言った。
その言葉には、西野個人への敵意はなかった。
だから、余計に深く入った。
店の表で、老人が咳をした。
一度。
間を置いて、もう一度。
加納の顔が硬くなった。
「誰か来ました」
西野は耳を澄ませた。
店の前で足音が止まっている。軽い。二人ではない。一人。迷っている足ではない。目的地を知っている足だった。
加納が紙を掴もうとした。
西野の手が先に動いた。
封筒、紙片、藤堂からの紙。すべてまとめて、机の下の古い辞書の間に挟んだ。
「動くな」
加納は息を止めた。
西野は棚から戦前の小説雑誌を一冊取り、開いた。加納にも別の本を持たせる。
扉の硝子が鳴った。
「失礼」
入ってきたのは、女だった。
紺のスカーフ。
鶴橋で、視界の端にいた女。
今日は灰色のコートを着ている。髪を短くまとめ、手には古い料理本を持っていた。見た目は、普通の客だった。
普通すぎた。
老人が大きな声で言った。
「貸出は五時までや」
女は微笑した。
「料理本を探していて」
その声に、東の訛りはなかった。
西の抑揚でもなかった。
訓練された平坦さがあった。
西野は本に目を落としたまま、女の靴を見た。踵が低い。走れる靴。袖口には水滴がない。外は湿っているのに。
女は棚を見ていた。
見ているふりで、部屋の奥を測っていた。
加納の喉が鳴った。
ほんの小さな音だった。
女の視線が、わずかに動く。
西野はページをめくった。
「この作者は、結末が悪い」
老人が耳が悪いふりをやめて、西野を見た。
女も見た。
西野は続けた。
「途中で出てきた女が、だいたい余計なことをする」
老人は一拍置いて笑った。
「貸本に文句を言う客は、買う金がない客や」
女は料理本を一冊抜いた。
「また来ます」
「本は料理と違って、煮ても柔らかくならんで」
老人が言った。
女は微笑したまま出ていった。
扉の鈴が鳴った。
加納はしばらく動けなかった。
西野は本を閉じた。
「今の女を知っているか」
加納は首を振った。
「救援会の人間ではありません」
「そうだろうな」
「公安ですか」
「公安なら、もっと下手に見る」
「じゃあ」
「知らない方が長生きする」
加納は唇を噛んだ。
「そればっかりです」
「長生きしたいならな」
「長生きするために黙ってたら、何のために生きるんですか」
西野は答えなかった。
答えれば、加納に近づきすぎる。
西野は辞書の間から紙を取り出し、封筒だけを加納に戻した。小さな紙片は自分の内ポケットへ入れた。
九条 朝日印刷所。
明夜十九時。
活字の下へ。
「明日、行く」
加納の肩から力が抜けた。
それは信頼ではなかった。
手順が一つ進んだだけだった。
「西野さん」
「何や」
「藤堂さんが言っていました」
加納は迷いながら、言葉を選んだ。
「その人は、帰る場所を間違えているかもしれない、と」
西野は加納を見た。
部屋の古紙の匂いが、急に濃くなった。
「それは、俺のことか」
「分かりません」
「分からないことばかりやな」
「だから、渡してるんです」
加納はそう言った。
「分かる人へ」
西野は紙片を内ポケットの奥へ押し込んだ。
鞄の中には、紙袋に包んだ拳銃がある。
胸の内には、藤堂の名前がある。
目の前には、殺すべき青年がいる。
西野は立ち上がった。
「ここから出たら、まっすぐ救援会へ戻るな」
「なぜ」
「さっきの女が、まっすぐな人間を好む」
「どうすれば」
「本を一冊借りろ。別の道で帰れ。途中で、読むふりをしろ」
加納は棚を見た。
「どれを」
西野は適当に一冊抜いた。
『月と六ペンス』。
「これにしろ」
「読んだことないです」
「なら、ふりではなくなる」
加納は初めて、少しだけ普通に笑った。
それが、いちばんよくなかった。
貸本屋を出る時、老人が小声で言った。
「返却は三日以内や」
西野は足を止めた。
三日以内。
葛城の期限と同じだった。
老人は新聞を広げたまま、こちらを見なかった。
偶然か。
符丁か。
老いた貸本屋の冗談か。
もう、どれでもよかった。
九条の路地に出ると、夕方の風が冷たかった。
加納は本を抱えて、言われた通り反対側の道へ歩いた。歩き方はまだ下手だった。尾行を意識しすぎて、背中が固い。
西野は追わなかった。
追わなくても、行き先は分かっている。
朝日印刷所。
明夜十九時。
活字の下へ。
その言葉が、胸の内側でゆっくり重くなった。
西野は思った。
加納誠は、信用していない。
藤堂も、たぶん信用していない。
葛城は、信用を確認しろと言った。
公安は、信用という言葉を使わずに人を縛る。
佐伯は、同僚として忘れると言った。
誰も誰かを信じていない。
それなのに、紙だけが人から人へ渡っていく。
西野は内ポケットの紙片に触れた。
その紙は薄かった。
だが、薄い紙ほど、よく切れる。
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