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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第九話 名前を消せる男

加納誠は、階段の踊り場で待っていた。


事務所の中では、まだ紙をめくる音がしていた。林美沙の声。大垣修平の咳。金斗満が何かを乱暴に言い、誰かが小さく笑う声。


その全部が、薄い扉の向こうで生活の音になっていた。


加納は封筒を懐に入れたまま、西野を見た。


「ここでは話せません」

「なら、どこで話す」

「近くに貸本屋があります。今はもう、ほとんど開いていません」

「ほとんど、か」

「店主が耳を悪くしています」

「耳が悪い人間ほど、よく聞いてることがある」


加納は少し困った顔をした。


「そういうことを言うから、市役所の人に見えないんです」


西野は答えなかった。

二人は並んで歩かなかった。


西野が先に階段を下り、金物屋の店先を抜けた。戸車、錆びた釘、薄い薬缶。加納は少し遅れて出てきた。慣れていない距離の取り方だった。人目を避けようとして、かえって目立つ。


西野はそれを直さなかった。


九条の路地は、夕方の前の鈍い時間に沈んでいた。工場の機械音が遠くから響き、電柱には「国家保安法強化反対」のビラと、「赤色分子を追放せよ」の貼り紙が、同じ糊で貼られていた。


西野はガラス戸の魚屋の前で足を止めた。


背後が映る。

誰もいない。

いや、一人いた。


救援会の事務所にいた老教師風の男が、向かいの煙草屋で新聞を読んでいた。ページをめくる間隔が規則正しすぎる。


西野は歩き出した。

加納はそれに気づいていない。


気づかない方が自然だった。

気づけば、生き方が変わる。

この青年は、まだそこまで汚れていなかった。


貸本屋は、商店街の外れにあった。

看板には「春灯堂」とある。春の字だけが、雨で滲んだように薄くなっていた。棚には古い雑誌、児童書、貸本漫画、参考書が詰まっている。入口横には「東側出版物の持込を禁ず」と手書きの紙が貼られていた。


そのすぐ下に、誰かが鉛筆で小さく書き足していた。

本に国境はない。

さらにその下に、別の手でこうあった。

持ってる人間には住所がある。


西野はその文字を見た。

紀子が言いそうな言葉だった。


店の奥に、老人が座っていた。毛糸の帽子をかぶり、耳に補聴器をつけている。西野たちを見ると、何も聞こえていないふりをして、手元の新聞に目を落とした。


加納は店のさらに奥、貸本の修理台がある小部屋へ入った。

西野も続いた。


部屋には糊の匂いがした。古紙、黴、油、古いインク。壁には昭和の探偵小説の表紙が並び、その隣に、明らかに東側の児童書が数冊、紙袋に包まれて隠すように置かれていた。


『ぼくらの共同住宅』

『人民鉄道の一日』

『雪の日のドゥルージナ』


救援会の事務所で見た本と同じ系列だった。

加納は封筒を机に置いた。


「僕は、あなたを信じていません」


最初にそう言った。

西野は加納を見た。


「それにしては、よくここへ呼んだな」

「信じてるんじゃありません」


加納の声はかすかに震えていた。


「順番が来たから、渡しているだけです」

「誰の順番だ」


加納は少し迷った。

それから言った。


「藤堂さんの」


藤堂鶴彦。


その名は、小さな部屋の湿った空気の中で、刃物のように乾いていた。

西野は表情を変えなかった。


「藤堂を知っているのか」

「知っている、とは言えません。直接会ったのは二度です。顔も、本名も、本当かどうか分からない。でも、僕らの何人かは、あの人から言葉を預かっています」


「僕ら」

「救援会の中の、さらに一部です。全員じゃありません」

「大垣もか」


加納は首を振った。


「あの人は違います。たぶん」

「たぶんで動くのか」

「たぶんでしか動けない時があります」


西野は黙った。

加納は封筒を開けた。


中には紙が一枚だけ入っていた。上等な紙ではない。救援会で使う藁半紙でもない。無地の薄い紙。


加納はそれを西野には渡さなかった。

机の上に置き、自分の指で押さえたまま読むように見せた。

そこには短く書かれていた。


民生局。

名簿から名を消す男。

山下の後に来る者。

九条へ導け。


西野は紙を見た。


「俺の名前はない」

「聞いていません」


加納は言った。


「藤堂さんから、あなたの名前は聞いていませんでした。民生局の窓口に、名前を消せる男がいる、とだけ」

「名前を消す男」

「山下さんが死んだ後、その人が救援会の周辺に来る。名簿から子どもの名前を消す。紙を公安へ渡さない。そう聞いていました」


西野は紙から目を離した。


「山下は何を運んでいた」

「僕にも全部は」

「全部でなくていい」


加納は息を整えた。


「山下さんは、西成の日雇い労組と救援会の間をつなぐ役でした。被災者の身寄り、労組の寝泊まり先、学生の連絡先。そういうものを集めていました」

「誰に頼まれて」

「藤堂さんだと思っていました」

「思っていた」


加納は唇を噛んだ。


「死んだからです。山下さんは、用が済んだから殺されたのかもしれない。僕らの誰かが売ったのかもしれない。公安かもしれない。東側かもしれない。もう、誰の線だったのか分からない」


声が若かった。

若いということは、まだ絶望に慣れていないということだった。


西野は言った。


「分からないまま、俺に話しているのか」

「話さない方が安全です。でも、話さなければ次に誰が死ぬか分かりません」

「自分か」

「それでもいいとは言いません」


加納は西野をまっすぐ見た。


「怖いです」


その言葉は、強かった。

強がらなかったからだ。


「でも、怖いから黙るのは、もっと嫌です」


外を市電が通った。窓ガラスが細かく震えた。

西野は、加納の手を見た。

鉛筆だこ。インクの染み。指の節に小さな傷。

武器を持つ手ではない。

紙を持つ手だ。


だが、人は紙で死ぬ。


「藤堂はどこにいる」


加納は首を振った。


「知りません」

「嘘なら下手だ」

「本当です。僕は居場所を知りません。知っていたら、たぶんもう捕まっています」

「では、なぜ俺に接触した」

「次の言葉を渡すためです」

「言葉」


加納は封筒の内側から、さらに小さな紙片を出した。

今度は、西野に渡した。


西野は受け取った。


九条 朝日印刷所

明夜十九時

活字の下へ


それだけだった。


西野は紙片を折った。


「朝日印刷所」

「救援会のビラを刷っている場所です。明日の夜、追悼集会のビラを刷ります。そこへ来てください」

「誰に会える」

「分かりません」

「何も分からないんだな」


加納は少し笑った。

笑ったというより、そうでもしないと声が崩れる顔だった。


「西野さんは、分かっているんですか」


西野は答えなかった。

加納は続けた。


「僕は東を信じてるわけじゃありません。東京のことも、人民なんとかという言葉も、正直よく分からない。救援会の古い人たちが、人民暦とか総括とか言うたびに、少し気持ち悪いと思います」


西野は黙って聞いていた。


「でも、西を信じろと言われても、僕らの名前はすぐ公安に渡る。子どもが本を集めただけで、名簿になる。朝鮮の人を助けたら赤と言われる。統一と言えば危険と言われる」


加納は机の上の本を見た。


『雪の日のドゥルージナ』の青い表紙が、紙袋から少しだけ出ていた。


「東が正しいとは思いません。けど、西が自由だと言うなら、まず僕らの名前を公安に渡さないでください」


それは、演説ではなかった。

もっと小さく、もっと厄介なものだった。

訴えだった。

西野は言った。


「名前を書かなければ、助けられないこともある」

「知っています」

「名前を書けば、捕まることもある」

「それも知っています」

「なら、どちらを選ぶ」


加納はしばらく黙った。


「その人に聞きます」

「誰に」

「僕を捕まえる人に」


西野は、ほんの少しだけ加納を見る目を変えた。

加納は気づかなかった。


「役所では紙さえあれば、理由はいらない」

「だから、役所が怖いんです」


加納はそう言った。


その言葉には、西野個人への敵意はなかった。

だから、余計に深く入った。

店の表で、老人が咳をした。

一度。

間を置いて、もう一度。


加納の顔が硬くなった。


「誰か来ました」


西野は耳を澄ませた。

店の前で足音が止まっている。軽い。二人ではない。一人。迷っている足ではない。目的地を知っている足だった。


加納が紙を掴もうとした。

西野の手が先に動いた。


封筒、紙片、藤堂からの紙。すべてまとめて、机の下の古い辞書の間に挟んだ。


「動くな」


加納は息を止めた。

西野は棚から戦前の小説雑誌を一冊取り、開いた。加納にも別の本を持たせる。

扉の硝子が鳴った。


「失礼」


入ってきたのは、女だった。

紺のスカーフ。

鶴橋で、視界の端にいた女。

今日は灰色のコートを着ている。髪を短くまとめ、手には古い料理本を持っていた。見た目は、普通の客だった。

普通すぎた。


老人が大きな声で言った。


「貸出は五時までや」


女は微笑した。


「料理本を探していて」


その声に、東の訛りはなかった。

西の抑揚でもなかった。

訓練された平坦さがあった。


西野は本に目を落としたまま、女の靴を見た。踵が低い。走れる靴。袖口には水滴がない。外は湿っているのに。

女は棚を見ていた。

見ているふりで、部屋の奥を測っていた。


加納の喉が鳴った。

ほんの小さな音だった。

女の視線が、わずかに動く。

西野はページをめくった。


「この作者は、結末が悪い」


老人が耳が悪いふりをやめて、西野を見た。

女も見た。

西野は続けた。


「途中で出てきた女が、だいたい余計なことをする」


老人は一拍置いて笑った。


「貸本に文句を言う客は、買う金がない客や」


女は料理本を一冊抜いた。


「また来ます」

「本は料理と違って、煮ても柔らかくならんで」


老人が言った。

女は微笑したまま出ていった。

扉の鈴が鳴った。

加納はしばらく動けなかった。

西野は本を閉じた。


「今の女を知っているか」


加納は首を振った。


「救援会の人間ではありません」

「そうだろうな」

「公安ですか」

「公安なら、もっと下手に見る」

「じゃあ」

「知らない方が長生きする」


加納は唇を噛んだ。


「そればっかりです」

「長生きしたいならな」

「長生きするために黙ってたら、何のために生きるんですか」


西野は答えなかった。

答えれば、加納に近づきすぎる。

西野は辞書の間から紙を取り出し、封筒だけを加納に戻した。小さな紙片は自分の内ポケットへ入れた。


九条 朝日印刷所。

明夜十九時。

活字の下へ。


「明日、行く」


加納の肩から力が抜けた。

それは信頼ではなかった。


手順が一つ進んだだけだった。


「西野さん」

「何や」

「藤堂さんが言っていました」


加納は迷いながら、言葉を選んだ。


「その人は、帰る場所を間違えているかもしれない、と」


西野は加納を見た。

部屋の古紙の匂いが、急に濃くなった。


「それは、俺のことか」

「分かりません」

「分からないことばかりやな」

「だから、渡してるんです」


加納はそう言った。


「分かる人へ」


西野は紙片を内ポケットの奥へ押し込んだ。


鞄の中には、紙袋に包んだ拳銃がある。

胸の内には、藤堂の名前がある。

目の前には、殺すべき青年がいる。


西野は立ち上がった。


「ここから出たら、まっすぐ救援会へ戻るな」

「なぜ」

「さっきの女が、まっすぐな人間を好む」

「どうすれば」

「本を一冊借りろ。別の道で帰れ。途中で、読むふりをしろ」


加納は棚を見た。


「どれを」


西野は適当に一冊抜いた。


『月と六ペンス』。


「これにしろ」

「読んだことないです」

「なら、ふりではなくなる」


加納は初めて、少しだけ普通に笑った。

それが、いちばんよくなかった。

貸本屋を出る時、老人が小声で言った。


「返却は三日以内や」


西野は足を止めた。

三日以内。

葛城の期限と同じだった。

老人は新聞を広げたまま、こちらを見なかった。


偶然か。

符丁か。

老いた貸本屋の冗談か。


もう、どれでもよかった。

九条の路地に出ると、夕方の風が冷たかった。


加納は本を抱えて、言われた通り反対側の道へ歩いた。歩き方はまだ下手だった。尾行を意識しすぎて、背中が固い。


西野は追わなかった。


追わなくても、行き先は分かっている。


朝日印刷所。

明夜十九時。

活字の下へ。


その言葉が、胸の内側でゆっくり重くなった。

西野は思った。


加納誠は、信用していない。

藤堂も、たぶん信用していない。

葛城は、信用を確認しろと言った。

公安は、信用という言葉を使わずに人を縛る。

佐伯は、同僚として忘れると言った。


誰も誰かを信じていない。

それなのに、紙だけが人から人へ渡っていく。


西野は内ポケットの紙片に触れた。


その紙は薄かった。


だが、薄い紙ほど、よく切れる。

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