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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十話 印刷所

九条の朝日印刷所は、夜になると工場よりも地下室に似ていた。


一階の表には、まだ看板が出ている。町内会の回覧板、商店街の売り出し広告、学校の文集、葬儀の挨拶状。何でも刷る、と看板にはある。何でも、という言葉ほど信用できないものはない。


西野芳彦が着いたのは、十八時五十五分だった。


明夜十九時。

活字の下へ。


加納誠から受け取った紙片は、もう燃やしてある。だが時刻と場所は、燃え残った。


印刷所の奥から、機械の音がしていた。


輪転ではない。もっと古い、重く、断続的な音だった。鉄が紙を噛み、離す。そのたびに床がわずかに震える。


入口の横には、印刷物の束が積まれていた。


歳末大売出し。

葬儀御礼。

国家保安法反対集会。

町内防火週間。


同じインクで刷られていた。


商店街の景気も、死者への礼も、反政府集会も、防火運動も、活字になれば同じ黒だった。


中に入ると、インクの匂いが強くなった。


灯油ストーブ。湿った紙。鉛の活字。古い木の床。壁には時計があり、少し遅れていた。作業台の上には、組まれた活字が長方形の枠に詰められ、逆さの文字で眠っている。


奥で老人が活字を拾っていた。


小柄な男だった。白髪を後ろへ撫でつけ、紺の前掛けをしている。指先は黒く、爪の間までインクが染みていた。印刷工というより、黒い水から物を拾い上げる漁師のようだった。


「市役所さんか」


老人は顔を上げずに言った。


「西野です」

「加納から聞いとる。わしは井口や。ここの親方いうことになっとる」

「いうことに、ですか」

「ほんまの親方は借金や。わしは毎日、その手代やっとるだけや」


井口は活字を拾い、箱へ戻した。


「市役所の人間が、夜の印刷所に何の用や」

「配布物の確認です」

「昼に来ればええ」

「昼は市役所が混む」

「夜は、言葉が混む」


井口は初めて西野を見た。

目は濁っていなかった。耳も悪くはなさそうだった。


「奥や」


西野は鞄を持ち直した。


中には書類がある。

それから、紙袋に包まれた拳銃がある。


印刷機の横では、加納誠が紙束を揃えていた。古いコートは椅子の背にかけてあり、袖をまくった腕にインクがついている。隣には林美沙がいた。怪我人の包帯ではなく、今日は紙を数えていた。


西野を見ると、林が先に言った。


「本当に来たんですね」

「市役所は、呼ばれると来る」

「呼ばなくても来る時があります」

「それはだいたい嫌われる」


林は返事をしなかった。

加納は紙束を置いた。


「すみません。こんな場所で」

「場所を選べる話か」


加納は首を振った。

印刷機の脇には、刷り上がったビラが積まれていた。


地下鉄爆破追悼集会

死者を戦争の理由にするな

国家保安法の強化に反対する


西野は一枚取った。


「これを配るのか」

「はい」

「止められる」

「でしょうね」


加納の声は穏やかだった。穏やかにしようとしているだけだった。


「それでも刷るのか」

「死んだ人の名前が、戦争の理由に使われるのは嫌です」


林が横から言った。


「加納、言葉を選びなさい」

「選んでます」

「選び方が下手なの」

「林さんは、いつもそう言います」

「いつもそうだからよ」


井口が奥から笑った。


「活字は選べても、若いのは言葉を選べん」


林は老人を睨んだ。


「親方もです」

「わしはもう選ばん。選ぶほど先がない」


西野はビラを戻した。

その時、別の机に積まれている紙束が目に入った。


『西日本国防協会 関西支部

武力統一こそ真の平和』


西野はそれを見た。

加納も気づいた。


「それ、うちのじゃありません」

「分かっている」


井口が活字棚から声を出した。


「金さえ払えば、右も左も刷る。活字は思想を選ばん」


加納が言った。


「でも、同じ機械で刷るんですか」

「同じ紙で人を殴る奴も、涙を拭く奴もおる」


井口は活字を拾い続けた。


「機械に聞くな。人に聞け」


林が低く言った。


「人に聞いても、だいたい嘘をつきます」

「せやから活字が売れる」


西野は印刷所の中を見た。


右派のビラ。左派のビラ。町内会の回覧。葬儀の礼状。児童書回収の案内。どれも、同じ鉛の文字から作られていた。

同じ文字で、人は別々の国を作る。


「それで」


西野は加納に言った。


「活字の下とは、どこだ」


加納は一度、井口を見た。

井口は何も言わず、奥の活字棚を顎で示した。


棚は壁一面にあった。小さな引き出しが並び、それぞれに文字が書かれている。あ、い、う、え、お。漢字。数字。句読点。よく使う文字の箱だけ、縁が黒く磨り減っている。


加納は一番下の段の前にしゃがんだ。


そこには「東」と書かれた小さな札が貼ってあった。偶然ではないだろう。偶然に見えるように作っただけだ。


加納は引き出しを抜いた。

中には「東」の活字が詰まっている。東日本。東京。東淀川。東側。東へ。どの紙にも、よく使われる字だった。


加納はさらに、底板の端に指をかけた。

板が外れた。

その下に、薄い紙があった。

加納はそれを取り出し、西野に渡した。


林の目が、一瞬だけ加納の手へ動いた。

包帯を巻く人間の目だった。

傷ではなく、隠し事を見ていた。

すぐに、見なかった顔に戻した。


「僕は読んでいません」

「なぜ」

「読まないように言われました」

「誰に」


加納は答えなかった。

答えないことが、答えだった。


西野は紙を開いた。

活字で刷られていた。


手書きではない。

署名も、筆跡も、癖もない。

ただ、黒い文字だけが並んでいる。


『西野芳彦。

帰還命令を受けるな。

活字の下に置いた線を辿れ。

藤堂鶴彦。』


西野は紙を見ていた。

音が遠のいた。


印刷機の音。林の息。加納の緊張。井口の活字を戻す音。すべてが薄い壁の向こうへ下がった。


西野芳彦。


藤堂は、自分の今の名前を知っている。


京都でも、大阪でも、東京でもない。

大阪市役所民生局に二十五年座っていた、この名前を。


加納は、西野の顔を見ていた。


「それ、本当にあなた宛てなんですか」


西野は紙を畳んだ。


「お前は読んでいないと言った」

「読んでいません。でも、顔で分かります」

「顔を見るな」


加納は口を閉じた。

林が近づいた。


「何が書いてあるんですか」

「市役所の仕事ではない」

「ここに来て、それを言うんですか」

「だから言う」


林は西野を見た。


「あなたは、誰の仕事をしてるんです」


西野は答えなかった。

鞄の中の拳銃が、急に重くなった。

藤堂鶴彦。

二十五年前、東京で西野を送り出した男。


灰色の冬の朝。訓練所の中庭。藤堂は煙草を吸っていた。十五歳の西野に、新しい名前の書き方を教えた。筆圧を変えろ。癖を殺せ。自分の名前を自分のものと思うな。名前は着るものだ。必要なら脱げ。


その男が、今の名前で呼んでいる。


帰還命令を受けるな。


西野は、もう一度紙を見た。


「これは誰が持ってきた」


加納は答えた。


「昨日の速達です」

「差出人は」

「空白でした」

「郵便配達員は」

「本物だと思います。いつもの人でした」


井口が奥から言った。


「本物の配達員ほど、偽物の手紙を運ぶ。あれは職業病や」


西野は紙を内ポケットへ入れた。


「藤堂はどこにいる」


加納は首を振った。


「知りません。本当に」

「誰がこれをお前に渡せと」

「封筒の中に、ここへ置けとありました。東の活字の下へ。あなたが来たら渡せ、と」

「俺が来なければ」

「三日後に焼け、と」


三日。

葛城の期限と同じだった。

西野は加納を見た。


「お前は、自分が何を運んでいるか分かっているのか」


加納は苦しそうに笑った。


「最近、そればかり聞かれます」

「答えは」

「分かっていません」

「分からないものを運ぶな」

「分かっているものだけ運んでいたら、何も届きません」


若い理屈だった。

だが、嘘ではなかった。

林が言った。


「加納、もういい。西野さん、この子を巻き込まないでください」

「巻き込んだのは俺ではない」

「なら、誰です」


西野は答えられなかった。


東か。藤堂か。救援会か。公安か。加納自身か。


答えは一つではない。

一つではない答えは、現場では役に立たない。


井口が印刷機を止めた。

急に静かになった。


静かになったことで、外の音が聞こえた。

車だった。


一台ではない。


ブレーキの音が二つ。

それから、扉が閉まる音。

男の声。低い。数人。


林が窓へ寄ろうとした。

西野が止めた。


「見るな」


加納の顔色が変わった。


「公安ですか」

「まだ分からない」

「東ですか」

「それも、まだ分からない」


井口が小さく笑った。


「分からん客は、たいてい金を払わん」


誰も笑わなかった。


階下で、金物屋の主人が何かを言った。すぐに黙った。足音が階段に近づいてくる。

西野は鞄を机の下へ下ろした。

紙袋の位置を指で確かめる。


林は薬箱を持った。

加納は刷り上がったビラを抱えた。

井口は活字棚の前に立った。


老人の手には、鉛の活字が一つ握られていた。


「親方」


加納が言った。

井口は言った。


「活字は重いで。小さくてもな」


足音が階段を上がってくる。

西野は加納を見た。

殺すべき青年は、逃げなかった。

逃げるより先に、刷ったばかりのビラを隠そうとしていた。

それが一番、悪かった。

扉が叩かれた。


一度。


二度。


三度目はなかった。


扉の向こうから声がした。


「国家公安本部です。開けなさい」


西野は鞄の中で、鉄の冷たさに触れた。

同時に、窓の外で別の影が動いた。

紺のスカーフ。

公安だけではない。


印刷所の中で、刷りたての黒い文字がまだ乾いていなかった。

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