第十一話 手入れ
扉の向こうで、もう一度声がした。
「国家公安本部です。開けなさい」
井口の印刷所は、急に狭くなった。
さっきまで紙とインクと機械の場所だった。今は、人間の息だけが詰まっている。灯油ストーブの火が小さく揺れ、刷りたてのビラの黒い文字は、まだ乾ききっていなかった。
西野芳彦は鞄の中で、紙袋に包んだ鉄の位置を確かめていた。
拳銃は、そこにあった。
使えば終わる。
使わなくても、何かが終わる。
井口が西野を見た。
「市役所さん、扉は開けるもんか」
「閉めておけるなら、閉めておきたい」
「正直でええ」
井口は活字を握ったまま、前掛けを直した。
加納誠は刷り上がったビラを抱えていた。
林美沙は薬箱を持っている。
西野は鞄に手を置いたまま、窓の外の影を見ていた。
紺のスカーフ。
公安だけではない。
「開けろ」
扉が内側へ押された。
井口が鍵を外した。
入ってきたのは、五人だった。
黒い背広が三人。作業服が一人。女が一人。
先頭の男は四十代半ばで、目が笑っていなかった。前に市役所へ来た公安の男ではない。だが同じ匂いがした。役職を名乗る前から、人を黙らせることに慣れている男の匂いだった。
「国家公安本部関西局、村瀬です」
男は手帳を出した。
「国家保安法に基づき、印刷物および関係資料を確認します。全員、その場を動かないように」
井口が鼻を鳴らした。
「確認だけなら、昼に来い」
村瀬は井口を見なかった。
「あなたが責任者ですか」
「印刷物だけやなくて、借金も持っていてもらえると助かりますわ」
「ふざけないでください」
「ふざけてる顔に見えるか」
村瀬は部下に目で合図した。
黒い背広の二人が奥へ入る。作業服の男は入口付近に立った。女は、林の方を見ていた。紺のスカーフではない。紺のスカーフは、窓の外にいた。
中にも、外にもいる。
西野は呼吸を細くした。
村瀬が刷り上がったビラを一枚取った。
『地下鉄爆破追悼集会。
死者を戦争の理由にするな。
国家保安法の強化に反対する。』
村瀬は笑わなかった。
「立派な文言です」
加納が一歩出た。
「被災者支援の集会です」
「国家保安法反対集会でしょう」
「追悼です」
「追悼に政府批判は要らない」
加納は言葉を飲み込んだ。
林が横から言った。
「死んだ人を使って法を強くするなら、批判されても仕方ないでしょう」
村瀬は初めて林を見た。
「お名前は」
「林美沙。救護班です」
「救護班が政治を語る」
「怪我人が政治に殴られて来るからです」
一瞬、空気が硬くなった。
井口が小さく笑った。
「看護婦の舌は、活字より鋭いな」
「全員、身分証を」
村瀬が言った。
黒い背広の一人が名簿を集め始めた。別の男は活字棚を調べている。女は、積まれた本の箱を開けていた。東側児童書の入った箱に手が伸びる。
『雪の日のドゥルージナ』。
女はそれを取り出した。
「東側出版物」
村瀬が短く言った。
「押収」
加納が言った。
「子どもが雪かきをする本です」
「発行元は東京人民児童出版社」
「内容を読んでください」
「発行元で十分です」
「それで自由なんですか」
加納の声が震えた。
だが、今度は引かなかった。
村瀬は加納を見た。
「あなたは」
「加納誠です」
「大阪冬季救援会、書籍整理班」
「はい」
「あなたの名前は、何度か見ています」
林の顔が動いた。
加納は黙った。
村瀬は続けた。
「未成年者の名簿から名前を削ったそうですね」
加納は西野を見なかった。
「子どもが本を集めただけです」
「それを判断するのは公安です」
「子どもの名前まで必要ですか」
「必要です」
村瀬の声には迷いがなかった。
迷いのない声は、時々、嘘より悪い。
西野は自分の身分証を出した。
「大阪市役所民生局の西野です。物資配布の確認で来ています」
村瀬は手帳を見た。
「市役所の方が、夜に」
「昼は窓口が混みます」
「便利な説明ですね」
「役所には便利な説明しかありません」
村瀬は西野をしばらく見た。
「ここで何を確認していましたか」
「書籍提供物、追悼集会配布物、被災者支援名簿」
「東側出版物を見ましたか」
「見ました」
「なぜ報告しなかった」
「配布前です」
「配布前なら、思想はありませんか」
「配布前なら、紙です」
佐伯なら笑ったかもしれない。
ここには佐伯はいなかった。
村瀬は笑わなかった。
「市役所は最近、判断が柔らかい」
「市役所は、硬いと窓口が割れます」
村瀬の目が少しだけ細くなった。
「あなたも、あとで話を聞きます」
「どうぞ」
その時、活字棚を調べていた黒い背広の男が声を上げた。
「村瀬さん、こっちに隠し底があります」
加納の顔色が変わった。
西野は変えなかった。
東の活字棚。
底板は戻してある。藤堂の紙は西野が持っている。だが隠し底の存在そのものが見つかれば、別のものを疑われる。
井口が言った。
「活字屋には、隠し底くらいある。金を隠すんや」
「金はありますか」
「ないから借金の手代をしとる」
黒い背広が底板を外した。
空だった。
その空を見て、公安の男はむしろ疑う顔をした。
空の引き出しほど怪しいものはない。
村瀬が言った。
「棚ごと押収」
井口の顔が変わった。
「活字を持っていかれたら、明日から何も刷れん」
「しばらく刷らなくていい」
「葬儀の礼状もか」
村瀬は答えなかった。
井口が笑った。
「死んだ人間は、公安の都合を待ってくれんぞ」
黒い背広が井口の腕を掴んだ。
林が動こうとした。
西野が目だけで止めた。
動けば、流れが悪くなる。
まだだ。
まだ、誰も撃っていない。
窓の外で、影が動いた。
紺のスカーフ。
外の非常階段にいた。雨樋の影で、顔は見えない。だが姿勢が違う。公安が中で押収する間に、外の影は窓枠の高さを測っていた。
作業服の男が入口近くで少しだけ位置を変えた。
公安の作業服ではない。
さっきから、誰にも指示されていない。
それなのに、一番いい位置にいる。
出口を塞ぎ、机を見渡し、加納に近い。
西野は理解した。
公安の手入れに、別の手が混じっている。
西側は紙を取りに来た。
東側は線を切りに来た。
どちらにしても、加納誠はここにいる。
村瀬が言った。
「全員、持ち物を机の上に」
加納が持っていたビラを置いた。林は薬箱を置いた。井口は活字を置かなかった。
「老人」
村瀬が言った。
「それも置きなさい」
井口は手を開いた。
鉛の活字が一つ、机に落ちた。
「『命』の字や」
井口は言った。
「小さいやろ」
村瀬は活字を見なかった。
西野は鞄を机に置いた。
中には書類。
紙袋。
鉄。
黒い背広が鞄に手を伸ばす。
その瞬間、林の薬箱が床に落ちた。
わざとではない。
わざとに見えないように落とした。
瓶が割れる音。消毒液の匂い。白い包帯が床に転がる。
黒い背広が一瞬そちらを見た。
西野は鞄の留め金を外す手元で、紙袋の位置をずらした。書類の束を上に出す。市役所の検品記録、配布確認表、救援物資受領票。紙が、鉄の上に重なる。
林は床に膝をついていた。
西野と目が合った。
林は何も知らない。
だが、何かを見ている。
そういう目だった。
黒い背広が西野の鞄を開け、書類を雑にめくった。
「市役所の書類だけです」
村瀬が言った。
「預かっておく」
「原本です」
西野は言った。
「庁外へ持ち出す場合は、市の確認印が要ります」
「国家公安本部です」
「市の原本です」
村瀬は西野を見た。
「あなたは、ずいぶん書類にこだわる」
「市役所の人間ですから」
「便利ですね」
「ええ」
西野は言った。
「紙で市民の人生がかわる」
村瀬の目が細くなる。
その時、階下で誰かが叫んだ。
短い声だった。
金物屋の主人か、通行人か、別の誰かか。
ほぼ同時に、窓の外の影が消えた。
紺のスカーフが、非常階段から窓へ移った。
林が立ち上がる。
加納が西野に近づいた。
「西野さん」
小さな声だった。
公安の怒号と、井口の抗議と、割れた瓶の匂いの中で、加納の声だけが西野に届いた。
「藤堂さんが、もう一つ」
「今はやめろ」
「今じゃないと」
加納は懐に手を入れた。
西野は動かない。
作業服の男が、それを見た。
見た。
作業服の男の右手が、上着の内側へ入る。
西野は鞄の中に手を入れた。
黒い背広が叫んだ。
「動くな!」
林が加納の腕を掴んだ。
「加納、やめて!」
加納はそれでも紙を出そうとした。
「藤堂さんが、あなたは――」
窓ガラスが割れた。
外から何かが投げ込まれた。
小さな金属音。床を跳ねる。井口の足元で止まる。
灯油ストーブが倒れた。
火が床を舐めた。
誰かが叫んだ。
公安の男が銃を抜いた。
作業服の男も抜いた。
違う銃だった。
西野は、もう考えなかった。
考える時間は、銃を持たない人間のものだった。
鞄の中から紙袋を破る。
油紙を裂く。
指が鉄を掴む。
加納はまだ紙を握っていた。
林は加納の袖を引いている。
井口は活字棚の前で笑っている。
村瀬は誰に向けていいか分からない銃を構えている。
窓の外の紺のスカーフは、割れた硝子の向こうでこちらを見ている。
敵が多すぎた。
味方は、もっと分からなかった。
西野は銃を抜いた。
誰に向けるかは、まだ決めていなかった。
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