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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十一話 手入れ

扉の向こうで、もう一度声がした。


「国家公安本部です。開けなさい」


井口の印刷所は、急に狭くなった。

さっきまで紙とインクと機械の場所だった。今は、人間の息だけが詰まっている。灯油ストーブの火が小さく揺れ、刷りたてのビラの黒い文字は、まだ乾ききっていなかった。


西野芳彦は鞄の中で、紙袋に包んだ鉄の位置を確かめていた。

拳銃は、そこにあった。

使えば終わる。

使わなくても、何かが終わる。


井口が西野を見た。


「市役所さん、扉は開けるもんか」

「閉めておけるなら、閉めておきたい」

「正直でええ」


井口は活字を握ったまま、前掛けを直した。

加納誠は刷り上がったビラを抱えていた。

林美沙は薬箱を持っている。

西野は鞄に手を置いたまま、窓の外の影を見ていた。


紺のスカーフ。

公安だけではない。


「開けろ」


扉が内側へ押された。

井口が鍵を外した。

入ってきたのは、五人だった。


黒い背広が三人。作業服が一人。女が一人。

先頭の男は四十代半ばで、目が笑っていなかった。前に市役所へ来た公安の男ではない。だが同じ匂いがした。役職を名乗る前から、人を黙らせることに慣れている男の匂いだった。


「国家公安本部関西局、村瀬です」


男は手帳を出した。


「国家保安法に基づき、印刷物および関係資料を確認します。全員、その場を動かないように」


井口が鼻を鳴らした。


「確認だけなら、昼に来い」


村瀬は井口を見なかった。


「あなたが責任者ですか」

「印刷物だけやなくて、借金も持っていてもらえると助かりますわ」

「ふざけないでください」

「ふざけてる顔に見えるか」


村瀬は部下に目で合図した。

黒い背広の二人が奥へ入る。作業服の男は入口付近に立った。女は、林の方を見ていた。紺のスカーフではない。紺のスカーフは、窓の外にいた。


中にも、外にもいる。

西野は呼吸を細くした。

村瀬が刷り上がったビラを一枚取った。


『地下鉄爆破追悼集会。

死者を戦争の理由にするな。

国家保安法の強化に反対する。』


村瀬は笑わなかった。


「立派な文言です」


加納が一歩出た。


「被災者支援の集会です」

「国家保安法反対集会でしょう」

「追悼です」

「追悼に政府批判は要らない」


加納は言葉を飲み込んだ。

林が横から言った。


「死んだ人を使って法を強くするなら、批判されても仕方ないでしょう」


村瀬は初めて林を見た。


「お名前は」

「林美沙。救護班です」

「救護班が政治を語る」

「怪我人が政治に殴られて来るからです」


一瞬、空気が硬くなった。

井口が小さく笑った。


「看護婦の舌は、活字より鋭いな」

「全員、身分証を」


村瀬が言った。

黒い背広の一人が名簿を集め始めた。別の男は活字棚を調べている。女は、積まれた本の箱を開けていた。東側児童書の入った箱に手が伸びる。


『雪の日のドゥルージナ』。


女はそれを取り出した。


「東側出版物」


村瀬が短く言った。


「押収」


加納が言った。


「子どもが雪かきをする本です」

「発行元は東京人民児童出版社」

「内容を読んでください」

「発行元で十分です」

「それで自由なんですか」


加納の声が震えた。

だが、今度は引かなかった。

村瀬は加納を見た。


「あなたは」

「加納誠です」

「大阪冬季救援会、書籍整理班」

「はい」

「あなたの名前は、何度か見ています」


林の顔が動いた。

加納は黙った。

村瀬は続けた。


「未成年者の名簿から名前を削ったそうですね」


加納は西野を見なかった。


「子どもが本を集めただけです」

「それを判断するのは公安です」

「子どもの名前まで必要ですか」

「必要です」


村瀬の声には迷いがなかった。

迷いのない声は、時々、嘘より悪い。

西野は自分の身分証を出した。


「大阪市役所民生局の西野です。物資配布の確認で来ています」


村瀬は手帳を見た。


「市役所の方が、夜に」

「昼は窓口が混みます」

「便利な説明ですね」

「役所には便利な説明しかありません」


村瀬は西野をしばらく見た。


「ここで何を確認していましたか」

「書籍提供物、追悼集会配布物、被災者支援名簿」

「東側出版物を見ましたか」

「見ました」

「なぜ報告しなかった」

「配布前です」

「配布前なら、思想はありませんか」

「配布前なら、紙です」


佐伯なら笑ったかもしれない。

ここには佐伯はいなかった。

村瀬は笑わなかった。


「市役所は最近、判断が柔らかい」

「市役所は、硬いと窓口が割れます」


村瀬の目が少しだけ細くなった。


「あなたも、あとで話を聞きます」

「どうぞ」


その時、活字棚を調べていた黒い背広の男が声を上げた。


「村瀬さん、こっちに隠し底があります」


加納の顔色が変わった。

西野は変えなかった。


東の活字棚。

底板は戻してある。藤堂の紙は西野が持っている。だが隠し底の存在そのものが見つかれば、別のものを疑われる。


井口が言った。


「活字屋には、隠し底くらいある。金を隠すんや」

「金はありますか」

「ないから借金の手代をしとる」


黒い背広が底板を外した。


空だった。

その空を見て、公安の男はむしろ疑う顔をした。

空の引き出しほど怪しいものはない。

村瀬が言った。


「棚ごと押収」


井口の顔が変わった。


「活字を持っていかれたら、明日から何も刷れん」

「しばらく刷らなくていい」

「葬儀の礼状もか」


村瀬は答えなかった。

井口が笑った。


「死んだ人間は、公安の都合を待ってくれんぞ」


黒い背広が井口の腕を掴んだ。

林が動こうとした。

西野が目だけで止めた。

動けば、流れが悪くなる。


まだだ。

まだ、誰も撃っていない。

窓の外で、影が動いた。


紺のスカーフ。


外の非常階段にいた。雨樋の影で、顔は見えない。だが姿勢が違う。公安が中で押収する間に、外の影は窓枠の高さを測っていた。


作業服の男が入口近くで少しだけ位置を変えた。

公安の作業服ではない。


さっきから、誰にも指示されていない。

それなのに、一番いい位置にいる。

出口を塞ぎ、机を見渡し、加納に近い。


西野は理解した。

公安の手入れに、別の手が混じっている。


西側は紙を取りに来た。

東側は線を切りに来た。


どちらにしても、加納誠はここにいる。

村瀬が言った。


「全員、持ち物を机の上に」


加納が持っていたビラを置いた。林は薬箱を置いた。井口は活字を置かなかった。


「老人」


村瀬が言った。


「それも置きなさい」


井口は手を開いた。

鉛の活字が一つ、机に落ちた。


「『命』の字や」


井口は言った。


「小さいやろ」


村瀬は活字を見なかった。

西野は鞄を机に置いた。


中には書類。

紙袋。

鉄。


黒い背広が鞄に手を伸ばす。

その瞬間、林の薬箱が床に落ちた。


わざとではない。

わざとに見えないように落とした。


瓶が割れる音。消毒液の匂い。白い包帯が床に転がる。


黒い背広が一瞬そちらを見た。


西野は鞄の留め金を外す手元で、紙袋の位置をずらした。書類の束を上に出す。市役所の検品記録、配布確認表、救援物資受領票。紙が、鉄の上に重なる。

林は床に膝をついていた。

西野と目が合った。

林は何も知らない。

だが、何かを見ている。


そういう目だった。

黒い背広が西野の鞄を開け、書類を雑にめくった。


「市役所の書類だけです」


村瀬が言った。


「預かっておく」

「原本です」


西野は言った。


「庁外へ持ち出す場合は、市の確認印が要ります」

「国家公安本部です」

「市の原本です」


村瀬は西野を見た。


「あなたは、ずいぶん書類にこだわる」

「市役所の人間ですから」

「便利ですね」

「ええ」


西野は言った。


「紙で市民の人生がかわる」


村瀬の目が細くなる。

その時、階下で誰かが叫んだ。


短い声だった。

金物屋の主人か、通行人か、別の誰かか。

ほぼ同時に、窓の外の影が消えた。


紺のスカーフが、非常階段から窓へ移った。

林が立ち上がる。

加納が西野に近づいた。


「西野さん」


小さな声だった。

公安の怒号と、井口の抗議と、割れた瓶の匂いの中で、加納の声だけが西野に届いた。


「藤堂さんが、もう一つ」

「今はやめろ」

「今じゃないと」


加納は懐に手を入れた。

西野は動かない。

作業服の男が、それを見た。

見た。

作業服の男の右手が、上着の内側へ入る。

西野は鞄の中に手を入れた。

黒い背広が叫んだ。


「動くな!」


林が加納の腕を掴んだ。


「加納、やめて!」


加納はそれでも紙を出そうとした。


「藤堂さんが、あなたは――」


窓ガラスが割れた。

外から何かが投げ込まれた。


小さな金属音。床を跳ねる。井口の足元で止まる。

灯油ストーブが倒れた。

火が床を舐めた。


誰かが叫んだ。

公安の男が銃を抜いた。

作業服の男も抜いた。

違う銃だった。


西野は、もう考えなかった。

考える時間は、銃を持たない人間のものだった。


鞄の中から紙袋を破る。

油紙を裂く。

指が鉄を掴む。


加納はまだ紙を握っていた。


林は加納の袖を引いている。

井口は活字棚の前で笑っている。

村瀬は誰に向けていいか分からない銃を構えている。

窓の外の紺のスカーフは、割れた硝子の向こうでこちらを見ている。


敵が多すぎた。

味方は、もっと分からなかった。


西野は銃を抜いた。


誰に向けるかは、まだ決めていなかった。

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