第十二話 東へ帰るな
西野芳彦は銃を抜いた。
誰に向けるかは、まだ決めていなかった。
印刷所の中で、時間が薄く伸びた。
灯油ストーブが倒れ、火が床を舐めている。刷り上がったばかりのビラが、端から黒く縮んでいく。国家公安本部の男たちは怒鳴り、井口は活字棚の前で小さな鉛の字を握っている。林美沙は薬箱を抱え、加納誠は何かの紙を握りしめていた。
窓の外には、紺のスカーフ。
入口には、作業服の男。
公安の手入れに、別の手が混じっていた。
作業服の男が銃を抜いた。
狙いは公安ではなかった。
加納だった。
西野の身体が先に動いた。
銃声は、印刷機の金属音より乾いていた。
作業服の男の手首が跳ねた。拳銃が床に落ちる。男は声にならない息を吐き、膝をついた。
公安の男が叫んだ。
「誰が撃った!」
誰も答えなかった。
煙が広がっていた。灯油の匂い、焦げた紙の匂い、割れた薬瓶の消毒液の匂い。人間の恐怖は、その中では匂いを持たなかった。ただ、息だけが速くなる。
林が加納の腕を掴んだ。
「逃げて!」
加納は動かなかった。
「西野さん」
その声は、煙の中でも届いた。
「藤堂さんが、あなたは――」
「言うな」
西野は言った。
自分の声が、遠く聞こえた。
「今は言うな」
加納は首を振った。
怖がっていた。
だが、怖いからこそ言おうとしていた。
「東へ戻ったら駄目です。藤堂さんが、あなたは戻ったら――」
窓の外で、紺のスカーフの女が銃を構えた。
その銃口は加納を向いていなかった。
西野を見ていた。
撃つのか。
撃たないのか。
どちら側の男なのか。
それを見ていた。
西野は理解した。
これは手入れではない。
確認だった――まだ使える男なのかを。
公安が紙を押さえる。
東側が線を切る。
そして西野がどちらを見るかを、誰かが見ている。
加納は西野へ近づこうとした。
手の中の紙を差し出す。
小さな紙片だった。火の明かりで、端だけが赤く見えた。
林が加納の袖を掴む。
「加納、だめ!」
加納は振りほどかなかった。
振りほどけないまま、なお西野の方へ手を伸ばした。
「これを」
西野は加納の手を見た。
鉛筆だこ。
インクの染み。
荷札を書き直した手。
麻里の名を紙から消した手。
本を落とした手。
武器を知らない手。
それでも、その手には今、線が握られていた。
藤堂への線。
東側が切れと言った線。
西側が押収しようとする線。
加納自身が、意味も知らず運んできた線。
作業服の男が床を這って、自分の拳銃に手を伸ばした。
村瀬が叫んだ。
「全員伏せろ!」
公安の銃口が動く。誰に向けているのか、本人にも分かっていない。
井口が活字棚を蹴った。
小さな鉛の文字が床に散った。
命、東、国、死、紙。
文字が火の光の中を跳ねた。
林が加納を引き倒そうとする。
加納はそれでも紙を離さなかった。
「西野さん、あなたは――」
西野は一歩、前へ出た。
加納の顔が少しだけ明るくなった。
救われると思った顔ではなかった。
届くと思った顔だった。
紺のスカーフが、窓の外で瞬きをしなかった。
西野は銃を持ち替えた。
右手から左手へ。
それは市役所で判を押す手ではなかった。
家で茶碗を持つ手でもなかった。
二十五年前、東京で教わった手だった。
加納の目を見ない。
藤堂の声が、昔の教室から聞こえた。
『人を撃つ時に目を見るな。
目は、撃ったあとで残る。』
西野は引き金を引いた。
音は一発だった。
加納の身体が止まった。
それから、ゆっくり折れた。
林の声が割れた。
「加納!」
加納は床に倒れた。手の中の紙片が、インクの染みた床に落ちた。火の粉が一つ、その端に触れた。
西野は動かなかった。
動けば、すべてが決まる。
動かなくても、もう決まっていた。
公安の男たちは、誰が誰を撃ったのか分からず怒鳴っていた。作業服の男は血のついた手首を押さえ、床を蹴って後ずさった。紺のスカーフは、窓の外で銃を下ろした。
確認は終わった。
林が加納の身体を抱えた。
「押さえて、誰か、布!」
誰もすぐには動かなかった。
だから西野が動いた。
銃を鞄の陰に滑り込ませ、床に落ちていた包帯を拾い、林の横に膝をついた。
市役所の男の顔に戻る。
人を殺した手で、出血を押さえる。
林が西野を見た。
その目は、何もかも見た目ではなかった。
だが、何も見なかった目でもなかった。
「どいて」
林が言った。
「押さえろ」
西野は言った。
「どいて!」
「押さえなければ死ぬ」
「もう死んでる!」
林の声が裏返った。
加納はまだ息をしていた。
浅く、途切れるように。
西野は加納の胸を押さえた。血が指の間からにじんだ。温かかった。生きている人間の温度だった。
加納の目が、薄く開いた。
見てしまった。
西野は見ないはずだった。
加納は口を動かした。
声はほとんど出なかった。
西野は顔を近づけた。
「東へ……」
加納の喉が鳴った。
「帰るな」
西野は聞き返さなかった。
聞き返せば、まだ何かが残っているような気がした。
加納は紙片の方へ指を動かそうとした。
だが、指は床を掻いただけだった。
火が近づいていた。
紙片の端が丸まる。
黒くなる。
文字が読めなくなる。
西野は取れた。
手を伸ばせば、取れた。
だが、伸ばさなかった。
紺のスカーフが見ている。
公安がいる。
林がいる。
加納がいる。
そして、もう撃ってしまった。
紙を拾えば、撃った意味が変わる。
西野は紙片を見なかった。
紙は燃えた。
林が加納の名前を呼び続けていた。
「加納、加納、聞こえる? 加納!」
加納は答えなかった。
井口が火を踏み消そうとして、靴底を焦がした。公安の若い男が消火器を持ってきて、白い粉を撒いた。ビラの束が粉をかぶる。黒い文字が灰色に埋もれる。
村瀬が怒鳴った。
「全員、外へ出せ! こいつらを押さえろ!」
「負傷者がいる!」
林が叫んだ。
「外へ出せと言っている!」
「医者を呼んで!」
「救急車は呼んである!」
「遅い!」
林は加納の胸を押さえ続けた。
西野も手を離さなかった。
林は西野を見ずに言った。
「あなた、何を知ってるんです」
西野は答えなかった。
「この人、あなたに何か渡そうとしてた」
答えなかった。
「あなた、何をしたんです」
西野は、血のついた手で包帯を押さえた。
「押さえろ」
「答えて!」
「押さえろ」
林は歯を食いしばった。
涙は出ていなかった。泣くより先に、身体が動く人間だった。
その方が、あとで壊れる。
加納の息が、一度だけ深く入った。
それから、止まった。
林の手が止まった。
西野の手も止まった。
印刷所の中に、消火器の白い粉がゆっくり降っていた。雪のようだった。東京の訓練所の冬を思い出した。あの日も、白いものが降っていた。雪だったか、石灰だったか、もう思い出せない。
村瀬が近づいた。
「その男から離れてください」
林は動かなかった。
村瀬が黒い背広の男に合図した。二人が林を引き離そうとする。
林は抵抗した。
「触らないで!」
西野が立ち上がった。
「彼女は救護班です」
村瀬が西野を見た。
「あなたは、市役所の人間でしたね」
「そうです」
「では、こちらへ」
村瀬は加納の死体を見下ろした。
「この男は過激派関係者です。現場で抵抗し、銃撃戦に巻き込まれた」
林が顔を上げた。
「違う」
村瀬は聞かなかった。
「記録は、こちらで作ります」
その言葉で、西野は加納の死を理解した。
人は死ぬ。
それから記録になる。
記録になった時、死に方は変えられる。
加納誠は、もう一度殺される。
紙の上で。
井口が床に散った活字を拾いながら言った。
「刷る前から、原稿が決まっとるんか」
村瀬は井口を睨んだ。
「老いぼれは黙っていろ」
「偽りの文字は、老眼には読みにくいで」
黒い背広が井口を押さえた。
作業服の男は消えていた。
紺のスカーフも、もう窓の外にはいなかった。
東側の尾は、加納の死を見た。
西側の公安は、加納の死を処理する。
どちらも仕事を終えた顔になるだろう。
西野は自分の鞄を拾った。
拳銃は中に戻っている。
誰にも見られていない。
見られていないはずだった。
林美沙だけが、西野を見ていた。
見たのか。
見なかったのか。
その境目に、彼女の目は立っていた。
村瀬が言った。
「西野さん、事情聴取にご協力を」
「市役所へ報告が必要です」
「こちらが先です」
「被災者支援物資の検品記録が入っています。市の原本です」
また紙だった。
村瀬は一瞬だけ苛立った顔をした。
「後で来ていただきます」
「はい」
西野は頭を下げた。
市役所の男として。
林が低く言った。
「逃げるんですか」
西野は振り返らなかった。
逃げる。
そう言われれば、そうだった。
だが、逃げない人間から死ぬ。
それもまた、藤堂の教えだった。
印刷所を出る時、足元で焼け残ったビラが踏まれていた。
死者を戦争の理由にするな。
その文字だけが、奇妙に読めた。
外は冷えていた。
金物屋の主人は店の奥で震えていた。路地には警察車両が停まり、近所の人間が遠巻きに見ている。誰も近づかない。政治に関わる火事は、普通の火事より燃え移りやすい。
西野は路地の角まで歩いた。
そこで一度だけ、右手を見た。
加納の血がついていた。
手の甲ではない。
指の間でもない。
爪の縁だった。
黒くなりはじめている。
水で落ちる。
西野はそう思った。
水で落ちるものは、まだ汚れではない。
背後で、林の声が聞こえた。
加納の名を呼んでいた。
何度も。
だんだん声が小さくなっていく。
西野は歩き出した。
東へ帰るな。
加納の言葉は、まだ意味になっていなかった。
ただ、音として残った。
東へ。
帰るな。
西野は官舎の方向を見た。
紀子が、まだ味噌汁を温めている時間だった。
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