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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十二話 東へ帰るな

西野芳彦は銃を抜いた。


誰に向けるかは、まだ決めていなかった。


印刷所の中で、時間が薄く伸びた。


灯油ストーブが倒れ、火が床を舐めている。刷り上がったばかりのビラが、端から黒く縮んでいく。国家公安本部の男たちは怒鳴り、井口は活字棚の前で小さな鉛の字を握っている。林美沙は薬箱を抱え、加納誠は何かの紙を握りしめていた。


窓の外には、紺のスカーフ。

入口には、作業服の男。

公安の手入れに、別の手が混じっていた。

作業服の男が銃を抜いた。


狙いは公安ではなかった。

加納だった。


西野の身体が先に動いた。

銃声は、印刷機の金属音より乾いていた。


作業服の男の手首が跳ねた。拳銃が床に落ちる。男は声にならない息を吐き、膝をついた。

公安の男が叫んだ。


「誰が撃った!」


誰も答えなかった。

煙が広がっていた。灯油の匂い、焦げた紙の匂い、割れた薬瓶の消毒液の匂い。人間の恐怖は、その中では匂いを持たなかった。ただ、息だけが速くなる。


林が加納の腕を掴んだ。


「逃げて!」


加納は動かなかった。


「西野さん」


その声は、煙の中でも届いた。


「藤堂さんが、あなたは――」

「言うな」


西野は言った。

自分の声が、遠く聞こえた。


「今は言うな」


加納は首を振った。

怖がっていた。

だが、怖いからこそ言おうとしていた。


「東へ戻ったら駄目です。藤堂さんが、あなたは戻ったら――」


窓の外で、紺のスカーフの女が銃を構えた。

その銃口は加納を向いていなかった。

西野を見ていた。


撃つのか。

撃たないのか。

どちら側の男なのか。


それを見ていた。

西野は理解した。

これは手入れではない。

確認だった――まだ使える男なのかを。


公安が紙を押さえる。

東側が線を切る。

そして西野がどちらを見るかを、誰かが見ている。

加納は西野へ近づこうとした。

手の中の紙を差し出す。

小さな紙片だった。火の明かりで、端だけが赤く見えた。


林が加納の袖を掴む。


「加納、だめ!」


加納は振りほどかなかった。

振りほどけないまま、なお西野の方へ手を伸ばした。


「これを」


西野は加納の手を見た。


鉛筆だこ。

インクの染み。

荷札を書き直した手。

麻里の名を紙から消した手。

本を落とした手。

武器を知らない手。


それでも、その手には今、線が握られていた。

藤堂への線。


東側が切れと言った線。

西側が押収しようとする線。

加納自身が、意味も知らず運んできた線。

作業服の男が床を這って、自分の拳銃に手を伸ばした。


村瀬が叫んだ。


「全員伏せろ!」


公安の銃口が動く。誰に向けているのか、本人にも分かっていない。

井口が活字棚を蹴った。


小さな鉛の文字が床に散った。

命、東、国、死、紙。

文字が火の光の中を跳ねた。


林が加納を引き倒そうとする。

加納はそれでも紙を離さなかった。


「西野さん、あなたは――」


西野は一歩、前へ出た。

加納の顔が少しだけ明るくなった。

救われると思った顔ではなかった。

届くと思った顔だった。

紺のスカーフが、窓の外で瞬きをしなかった。


西野は銃を持ち替えた。

右手から左手へ。


それは市役所で判を押す手ではなかった。

家で茶碗を持つ手でもなかった。

二十五年前、東京で教わった手だった。


加納の目を見ない。

藤堂の声が、昔の教室から聞こえた。


『人を撃つ時に目を見るな。

目は、撃ったあとで残る。』


西野は引き金を引いた。

音は一発だった。


加納の身体が止まった。

それから、ゆっくり折れた。


林の声が割れた。


「加納!」


加納は床に倒れた。手の中の紙片が、インクの染みた床に落ちた。火の粉が一つ、その端に触れた。


西野は動かなかった。

動けば、すべてが決まる。

動かなくても、もう決まっていた。


公安の男たちは、誰が誰を撃ったのか分からず怒鳴っていた。作業服の男は血のついた手首を押さえ、床を蹴って後ずさった。紺のスカーフは、窓の外で銃を下ろした。


確認は終わった。

林が加納の身体を抱えた。


「押さえて、誰か、布!」


誰もすぐには動かなかった。

だから西野が動いた。

銃を鞄の陰に滑り込ませ、床に落ちていた包帯を拾い、林の横に膝をついた。


市役所の男の顔に戻る。

人を殺した手で、出血を押さえる。


林が西野を見た。

その目は、何もかも見た目ではなかった。

だが、何も見なかった目でもなかった。


「どいて」


林が言った。


「押さえろ」


西野は言った。


「どいて!」

「押さえなければ死ぬ」

「もう死んでる!」


林の声が裏返った。

加納はまだ息をしていた。


浅く、途切れるように。

西野は加納の胸を押さえた。血が指の間からにじんだ。温かかった。生きている人間の温度だった。


加納の目が、薄く開いた。

見てしまった。

西野は見ないはずだった。

加納は口を動かした。

声はほとんど出なかった。

西野は顔を近づけた。


「東へ……」


加納の喉が鳴った。


「帰るな」


西野は聞き返さなかった。

聞き返せば、まだ何かが残っているような気がした。

加納は紙片の方へ指を動かそうとした。

だが、指は床を掻いただけだった。

火が近づいていた。


紙片の端が丸まる。

黒くなる。

文字が読めなくなる。


西野は取れた。

手を伸ばせば、取れた。

だが、伸ばさなかった。


紺のスカーフが見ている。

公安がいる。

林がいる。

加納がいる。


そして、もう撃ってしまった。

紙を拾えば、撃った意味が変わる。

西野は紙片を見なかった。


紙は燃えた。

林が加納の名前を呼び続けていた。


「加納、加納、聞こえる? 加納!」


加納は答えなかった。

井口が火を踏み消そうとして、靴底を焦がした。公安の若い男が消火器を持ってきて、白い粉を撒いた。ビラの束が粉をかぶる。黒い文字が灰色に埋もれる。


村瀬が怒鳴った。


「全員、外へ出せ! こいつらを押さえろ!」

「負傷者がいる!」


林が叫んだ。


「外へ出せと言っている!」

「医者を呼んで!」

「救急車は呼んである!」

「遅い!」


林は加納の胸を押さえ続けた。

西野も手を離さなかった。


林は西野を見ずに言った。


「あなた、何を知ってるんです」


西野は答えなかった。


「この人、あなたに何か渡そうとしてた」


答えなかった。


「あなた、何をしたんです」


西野は、血のついた手で包帯を押さえた。


「押さえろ」

「答えて!」

「押さえろ」


林は歯を食いしばった。

涙は出ていなかった。泣くより先に、身体が動く人間だった。

その方が、あとで壊れる。

加納の息が、一度だけ深く入った。

それから、止まった。


林の手が止まった。

西野の手も止まった。


印刷所の中に、消火器の白い粉がゆっくり降っていた。雪のようだった。東京の訓練所の冬を思い出した。あの日も、白いものが降っていた。雪だったか、石灰だったか、もう思い出せない。


村瀬が近づいた。


「その男から離れてください」


林は動かなかった。

村瀬が黒い背広の男に合図した。二人が林を引き離そうとする。


林は抵抗した。


「触らないで!」


西野が立ち上がった。


「彼女は救護班です」


村瀬が西野を見た。


「あなたは、市役所の人間でしたね」

「そうです」

「では、こちらへ」


村瀬は加納の死体を見下ろした。


「この男は過激派関係者です。現場で抵抗し、銃撃戦に巻き込まれた」


林が顔を上げた。


「違う」


村瀬は聞かなかった。


「記録は、こちらで作ります」


その言葉で、西野は加納の死を理解した。


人は死ぬ。

それから記録になる。

記録になった時、死に方は変えられる。


加納誠は、もう一度殺される。

紙の上で。


井口が床に散った活字を拾いながら言った。


「刷る前から、原稿が決まっとるんか」


村瀬は井口を睨んだ。


「老いぼれは黙っていろ」

「偽りの文字は、老眼には読みにくいで」


黒い背広が井口を押さえた。

作業服の男は消えていた。

紺のスカーフも、もう窓の外にはいなかった。


東側の尾は、加納の死を見た。

西側の公安は、加納の死を処理する。

どちらも仕事を終えた顔になるだろう。


西野は自分の鞄を拾った。


拳銃は中に戻っている。

誰にも見られていない。

見られていないはずだった。


林美沙だけが、西野を見ていた。


見たのか。

見なかったのか。

その境目に、彼女の目は立っていた。


村瀬が言った。


「西野さん、事情聴取にご協力を」

「市役所へ報告が必要です」

「こちらが先です」

「被災者支援物資の検品記録が入っています。市の原本です」


また紙だった。

村瀬は一瞬だけ苛立った顔をした。


「後で来ていただきます」

「はい」


西野は頭を下げた。

市役所の男として。

林が低く言った。


「逃げるんですか」


西野は振り返らなかった。

逃げる。

そう言われれば、そうだった。


だが、逃げない人間から死ぬ。

それもまた、藤堂の教えだった。


印刷所を出る時、足元で焼け残ったビラが踏まれていた。

死者を戦争の理由にするな。


その文字だけが、奇妙に読めた。

外は冷えていた。


金物屋の主人は店の奥で震えていた。路地には警察車両が停まり、近所の人間が遠巻きに見ている。誰も近づかない。政治に関わる火事は、普通の火事より燃え移りやすい。


西野は路地の角まで歩いた。

そこで一度だけ、右手を見た。


加納の血がついていた。


手の甲ではない。

指の間でもない。

爪の縁だった。


黒くなりはじめている。

水で落ちる。

西野はそう思った。


水で落ちるものは、まだ汚れではない。

背後で、林の声が聞こえた。

加納の名を呼んでいた。

何度も。

だんだん声が小さくなっていく。


西野は歩き出した。

東へ帰るな。

加納の言葉は、まだ意味になっていなかった。

ただ、音として残った。


東へ。

帰るな。


西野は官舎の方向を見た。

紀子が、まだ味噌汁を温めている時間だった。

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