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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十三話 血の爪

西野芳彦は、眠らなかった。

眠れなかったのではない。

眠らなかった。


官舎に戻った時、台所の明かりは消えていた。紀子も麻里も寝ていた。廊下は冷え、流しの中には伏せられた茶碗が三つ並んでいた。


いつも通りだった。

いつも通りというものは、時々、死体より怖い。


西野は洗面所へ行き、蛇口をひねった。

水が出る。

冷たい。

手を洗った。


石鹸をつける。爪の間を洗う。親指の縁、人差し指の腹、爪の根元。水が白く泡立ち、やがて透明になった。

まだ残っている気がした。

爪の端に、加納誠の血が黒く入り込んでいる気がした。


もう一度洗った。

水で落ちるものは、汚れではない。

そう考えていた。

だが、その理屈は途中で力を失った。水は流れている。手はきれいになっていく。洗う理由だけが、いつまでも残った。


鏡を見ると、大阪市役所民生局の男がいた。

顔色は悪かった。

それだけだった。


殺人者の顔というものが別にあるなら、役所の鏡はそれを映さないようにできているのかもしれない。

背後で床が鳴った。

紀子だった。

寝間着の上に羽織をかけ、廊下に立っていた。


「遅かったのね」

「市役所が混んだ」


いつもの答えだった。

紀子は流しの水音を見た。


「夜中に、ずいぶん丁寧に手を洗うのね」


西野は蛇口を止めた。


「インクがついた」

「市役所で?」

「印刷所で」


紀子は、それ以上聞かなかった。

ただ、こう言った。


「爪は、洗いすぎると割れるわよ」


西野はタオルで手を拭いた。


「気をつける」


紀子は寝室へ戻った。


その背中は、問い詰める女の背中ではなかった。

それでも、何も知らない女の背中でもなかった。


朝になった。

麻里はいつもより少し遅く起きてきた。目が赤い。寝不足か、泣いたのか、まだどちらとも分からなかった。

食卓では、誰も加納誠の話をしなかった。

テレビはついていなかった。


紀子が味噌汁を出し、麻里が黙って箸を取る。西野は飯を口へ運んだ。味はしなかった。米は米の形をしているだけだった。


麻里がふいに言った。


「昨日、九条で火事があったって」


西野は茶碗を置かなかった。


「そうか」

「学校の子が言ってた。印刷所やって」


紀子が手を止めた。


「詳しいことは、まだ分からないでしょう」


麻里は父を見た。


「お父さん、知ってる?」

「市役所へ行けば分かる」

「そういう聞き方してない」


西野は麻里を見た。

娘の目は、まっすぐだった。加納に少し似ていた。いや、似ているのではない。同じ年頃の人間が持つ、まだ世界が自分の言葉で変わるかもしれないと思っている目だった。


「知らん」


西野は言った。

嘘だった。

麻里はその嘘を受け取った。

受け取って、飲み込まなかった。


「いってきます」


麻里は鞄を持って立った。

紀子が言った。


「お弁当」

「いらない」

「麻里」

「あとで購買で買う」


扉が閉まった。

紀子は弁当箱を手にしたまま、しばらく玄関の方を見ていた。

西野は飯を食べ終えた。

官舎を出る時、紀子が言った。


「今日は、早く帰れるの」

「分からん」

「そう」


紀子は少しだけ間を置いた。


「帰れないなら、そう言って」


西野は振り返らなかった。


「分かった」


市役所へ向かう道で、新聞売りが号外を出していた。


九条印刷所火災。

国家公安本部、過激派関係資料を押収。

死者一名。


名前は、まだ出ていなかった。


市役所に着くと、保護第一課はいつも通りに騒がしかった。電話が鳴り、書類が積まれ、誰かが朱肉を探し、誰かが湯呑みを倒していた。


いつも通りの朝だった。

人が一人死んでも、窓口は開く。

佐伯隆司が西野の顔を見るなり言った。


「顔色、悪いで」

「昨日からや」

「それ、最近ずっと言うてますな」


佐伯は引き出しを開け、煙草を一本出した。

西野の机に置く。


「吸わんのは知ってる。持っとくだけでも、間が持つ」


西野は煙草を見た。


「いらん」

「知ってる」


佐伯はそれを自分の口にくわえた。

火はつけなかった。

木島晴江が新聞を持って立っていた。


「九条の印刷所、救援会の関係先ですよね」


三好課長が奥から言った。


「公安が入った。過激派資料が出たらしい」


木島の顔が青くなった。


「加納さんは」


誰も答えなかった。

その沈黙が答えに近かった。

佐伯が、くわえた煙草を指に取った。


「ニュースを待ちましょう」


木島は新聞を握った。


「待てば、分かるんですか」

「少なくとも、新聞が何を書くかは分かります」


佐伯の声は軽くなかった。

三好が言った。


「救援会に深入りすれば、こうなる」


木島が振り向いた。


「まだ何も分かっていません」


「分かる前に死ぬ人間が多すぎるんや」


三好の声には、怒りより疲れがあった。

それでも、木島には冷たく聞こえた。

西野は自分の机に座った。


机の上には、昨日までの書籍提供申請書があった。大阪冬季救援会。書籍整理班。加納誠。

まだ処理中だった。

役所では、死者も処理中になる。


午前十時、NHAの速報が庁内放送室から流された。普段は昼の天気予報と役所からのお知らせに使う小さなスピーカーだった。


「昨夜、九条区の朝日印刷所において発生した火災および国家公安本部の捜索について、続報です」


課内の手が止まった。

西野だけは処理簿を書き続けた。


「国家公安本部は、同印刷所が左派系過激派団体の宣伝物印刷拠点として使用されていた疑いがあると発表しました。現場からは国家保安法に抵触する可能性のある印刷物、東側出版物、未届け集会の告知文書が押収されています」


木島が小さく言った。


「過激派団体……」


スピーカーの声は続いた。


「火災により、関係者一名が死亡。死亡したのは、大阪市立大学学生、加納誠、二十一歳。国家公安本部は、加納が現場での抵抗および混乱の中で負傷したものとみて、詳しい経緯を調べています」


木島の手から新聞が落ちた。

佐伯は煙草をくわえたまま、火をつけなかった。

三好は腕を組んだ。

誰も何も言わなかった。


スピーカーからは、次のニュースが流れた。京都御所。陛下の御動静。沖縄の米軍機整備事故。朝鮮人民共和国の艦艇。


世界は、次の見出しへ進んでいた。

木島が震える声で言った。


「抵抗って、何ですか」


三好が答える。


「発表はそうや」

「発表が、いつも本当ですか」


三好は黙った。

西野は処理簿に一行を書いた。


書籍提供申請。

申請者死亡により保留。

その字は、いつも通りだった。

それが嫌だった。


昼前、林美沙が来た。

受付の若い職員が止めようとしたが、彼女は止まらなかった。白い看護服ではなく、黒いコートを着ていた。髪は結んでいない。顔に血の気がなく、目だけが赤かった。

木島が立ち上がった。


「林さん」


林は木島を見なかった。

まっすぐ西野の机へ来た。

課内の空気が変わった。


佐伯が煙草を灰皿に置く。

三好が奥から出てくる。

木島は林の腕を取ろうとして、やめる。


林は西野の机の前に立った。


「加納は、あなたに何か渡そうとしていました」


声は静かだった。

静かすぎた。

西野は顔を上げた。


「ここは市役所です」

「知っています」

「死亡届や扶助の相談なら、窓口へ」


林の平手が飛んだ。

音は大きくなかった。

だが、課内のすべての音が止まった。


西野の頬が少し赤くなった。

佐伯が立ち上がりかけた。

西野は目で止めた。

林は震えていた。怒りで震えているのではなかった。震えを止めるために怒っているようだった。


「加納は、あなたに何か渡そうとしていました」


同じ言葉を、もう一度言った。


「私は見ました。印刷所で。活字棚の下から、加納が何かを出して、あなたに渡した。昨日、あなたはそれを持っていった」


三好の顔が動いた。

佐伯の目も動いた。

木島は息を止めた。


西野は林を見た。

林は続けた。


「あの人は、あなたを信じていませんでした。でも、あなたに何か渡そうとしていた。怖がっていた。怖がりながら、渡そうとしていた」

「何を見た」


西野は聞いた。


「手です」


林は言った。


「私は手を見ます。傷を洗うから。嘘をつく人の手も、痛い人の手も、逃げたい人の手も。加納の手は、昨日、渡す手でした」


西野は何も言わなかった。

林の声が少しだけ崩れた。


「あなたは、何者ですか」


三好が言った。


「林さん、ここでそういう話は」


林は振り向いた。


「ここでしかできません。あの人は、ここに座っているんですから」


佐伯が低く言った。


「林さん、落ち着いて」

「落ち着いてます」


林は西野に向き直った。


「加納は、あなたに何を渡したんです」


西野は答えなかった。


答えられることは多かった。

答えていいことは、なかった。


林は笑った。

笑ったように見えただけだった。


「やっぱり、市役所の人の顔をしていますね」

「市役所の人間です」

「顔の話です」


会った時と同じ言葉だった。

今は、もっと深かった。


林は机の上の申請書を見た。


大阪冬季救援会。

書籍提供。

加納誠。


彼女はその紙を破らなかった。

破るには、紙は軽すぎた。

加納の名前が、また誰かに処理されるだけだった。


「加納の死亡に関する手続きは」


西野は言った。


「身元引受人が必要です」

「家族は遠いです」

「救援会ではできない」

「私がします」

「親族ではない」

「では、誰がするんですか」


西野は書類を一枚出した。


「遺体引取申請。特例扱いにする。医療関係者として、救護班の証明をつけてください」


林はその紙を見た。


「また紙ですか」

「紙がないと、遺体も動かせない」

「紙で殺して、紙で返すんですね」


西野は答えなかった。

林は申請書を取った。


「あなたは、加納を助けられたんですか」


木島が泣きそうな顔で林を見ていた。

佐伯は窓の外を見ていた。

三好は目を閉じていた。

西野は言った。


「分かりません」


初めて、答えた。

林の目が細くなった。


「分からない?」

「分からない」

「それで済むんですか」

「済まない」


林はしばらく西野を見た。

それから、低い声で言った。


「なら、済ませないでください」


林は申請書を持って、窓口を出ていった。

木島が追いかけようとした。

西野が言った。


「木島さん」


木島は振り返った。


「行って、手続きの説明をしてくれ」


木島はうなずき、林を追った。

課内には、また音が戻った。電話。紙。判子。誰かの咳。

佐伯が言った。


「痛そうでしたな」


西野は頬に触れなかった。


「平手は、役所の手続きより早い」


佐伯は少し笑った。

笑ってから、やめた。


「西野さん」

「何や」

「昨日、何があったんです」


西野は佐伯を見た。

佐伯の顔は、いつもの軽い男の顔だった。

その奥に、別の目がある。


「ニュースの通りや」

「ニュースは、だいたい一つ足りません」

「何が」

「誰が得したか」


佐伯は煙草を一本出した。

今度は火をつけた。


「加納いう子、得したようには見えませんな」


西野は返事をしなかった。

午後、三好課長が西野を呼んだ。


課長席の上には、NHAの速報を書き写した紙と、国家公安本部からの照会依頼が置かれていた。


「印刷所にいたんやな」

「はい」

「市の業務か」

「物資配布確認です」

「公安から、事情聴取の依頼が来ている」

「分かりました」


三好は西野を見た。


「何か、わしに言うことはあるか」

「ありません」

「そうか」


三好は書類に目を落とした。


「わしは、救援会を信用してへん。統一派も、左の学生も、東の本も、何一つ信用してへん」

「知っています」

「でもな」


三好は小さく息を吐いた。


「あの学生の母親は、まだ知らんのやろな。息子が過激派やと新聞に書かれることを」


西野は何も言わなかった。


「死んだら、みんな書類になる。こっちは生きてる間から書類にする。たいして変わらんのかもしれん」


三好は顔を上げた。


「そう思う日は、役所を辞めた方がええんやろな」

「辞めますか」

「辞めへん」


三好は即座に言った。


「辞めたら、誰が判を押す」


西野は課長席を離れた。

三好の背中は小さく見えた。

東を憎みながら、東に残した兄のことを考えている背中だった。


夕方、市役所の裏口に金斗満がいた。

雨も降っていないのに、黒い帽子を深くかぶっている。手には新聞を持っていた。加納誠の名が、小さな見出しの下に載っている。


「市役所さん」


西野は足を止めた。


「食堂は」

「今日は閉めた。飯を出す気にならん」


金は新聞を丸めた。


「あの子は、悪い目をしてへんかった」

「前にも聞いた」

「せやから、もう一回言うてる」


金は西野を見た。


「悪い目をしてへん人間から死ぬ。そういう国は長続きする。悪い奴が長生きするからな」


「何の用や」


金は懐から、小さなマッチ箱を出した。

神戸のバーのものだった。


青い帆船の絵。

店名は英語で書かれている。


BLUE ANCHOR

KOBE


「加納が昨日の昼、うちに寄った。もし自分が戻らんかったら、市役所の男にこれを渡してくれと言うた」


「俺にか」

「市役所の男、とだけや」


金はマッチ箱を差し出した。

西野は受け取らなかった。


「なぜ渡す」

「渡さんかったら、あの子がまた死ぬ気がするからや」

「もう死んだ」

「せや。せやから、これ以上殺すな」


西野はマッチ箱を受け取った。

軽い。

中にマッチはなかった。代わりに、細く折った紙が入っていた。


王志明。

神戸旧居留地。

水曜日。


それだけだった。


「誰だ」


金は肩をすくめた。


「台湾の商売人や。国民党の残り火とも言う。嘘を売り、紙を買い、たまに本当のことを混ぜる」

「信用できるのか」

「信用できる商売人は、早死にする」


金は新聞を丸め直した。


「あんた、加納に近づくなと言うたのに、近づいた」


西野は答えなかった。


「次に近づく相手は、若い学生やない。神戸の男は、笑いながら人を売る」

「忠告か」

「違う」


金は首を振った。


「警告や。忠告は、聞く余地のある人間にする」


金は去っていった。

西野はマッチ箱を内ポケットに入れた。


神戸。

王志明。


藤堂への線は、まだ切れていなかった。

ただし、その線の上に、加納誠の血がついている。


夜、官舎に帰ると、麻里は食卓にいなかった。

紀子が台所にいた。


「部屋にいるわ」

「具合が悪いのか」

「ニュースを見たの」


西野は鞄を置いた。


「加納さん、死んだのね」


紀子は鍋に蓋をした。


「麻里は、あの人を少し信じていたみたい」

「そうか」

「あなたは?」


西野は紀子を見た。


「俺は」


言葉が続かなかった。

紀子はその続きを待たなかった。


「ご飯、温めるわね」


西野は洗面所へ行った。

蛇口をひねる。

水が出る。

手を洗った。

爪の間には、もう何も見えなかった。

加納の血は、目には残っていない。


それでも西野は、爪の根元を洗った。

親指の縁を洗った。

人差し指の腹を洗った。


水は透明だった。

石鹸の泡も白かった。

洗う理由は、もうなかった。


西野はもう一度、手を洗った。

理由がなくなってからが、本当の汚れだった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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