第十四話 青い錨
神戸のマッチ箱は、東京の命令書より軽かった。
それでも、西野芳彦は朝まで捨てられなかった。
青い帆船の絵。
BLUE ANCHOR。
KOBE。
中には、マッチの代わりに細く折った紙が入っていた。
王志明。
神戸旧居留地。
水曜日。
それだけだった。
加納誠は、死ぬ前にこれを金斗満へ渡した。
自分が戻らなかったら、市役所の男へ渡してくれ、と。
市役所の男。
西野はその呼び方を気に入らなかった。
気に入らなかったのは、たぶん当たっているからだった。
朝、市役所へ出ると、保護第一課にはいつも通り紙が積まれていた。人が死んでも、火事が起きても、新聞が加納を過激派関係者と呼んでも、生活保護の支給日は来る。家賃の期限も来る。子どもの通学費も足りなくなる。
窓口は、死者を待たない。
西野は机に座り、処理簿を開いた。
加納誠の書籍提供申請は、まだ未決だった。申請者死亡。団体継続確認中。担当者引継未了。
役所の言葉は、死を長く引き延ばす。
佐伯隆司が隣から声をかけた。
「西野さん、今朝は鞄が少し重いですな」
西野は筆を止めなかった。
「いつも通りや」
「いつも通りの人間は、鞄の重さなんか気にしません」
西野は答えなかった。
佐伯は煙草を一本くわえた。
火はつけなかった。
「人が逃げる時は、だいたい海か山へ行きますな」
「俺が逃げる顔に見えるか」
「まだです」
まだ。
その言葉だけが残った。
西野は処理簿を閉じた。
課長席へ向かうと、三好課長は公安からの照会依頼を読んでいた。加納の死後、救援会関係者の扶養照会と住宅確認が増えている。火事は一晩で消えたが、照会は燃え残る。
「午後、外へ出ます」
「どこへ」
「神戸です。救援物資の中継先確認」
三好は顔を上げた。
「また救援会か」
「神戸経由のものが混じっています」
三好はしばらく西野を見ていた。
「最近のお前は、外回りが多いな」
「窓口より、外の方が混んでます」
三好は何も言わずに、書類へ目を戻した。
西野は課長席を離れた。
木島晴江は窓口で、朝鮮避難民の母親に医療券の説明をしていた。林美沙が持ってきた申請は通ったらしい。熱のある子どもは、少なくとも今日だけは病院へ行ける。
今日だけは。
役所は、だいたい今日を延ばす仕事だった。
明日のことは、また別の用紙になる。
午後一時過ぎ、西野は大阪駅から神戸行きに乗った。
車内は混んでいた。
国防軍の兵士が二人。鞄を抱えた商人。朝鮮語で小声で話す母子。米軍関係者らしい白人の男。学生。喪服の女。
分断国家の列車では、人は目的地よりも隣の耳を気にする。
西野は扉近くに立った。
網棚の上に、誰かの新聞が置かれている。一面には、加納誠の名前が小さく出ていた。
左派系印刷所火災。
過激派関係者死亡。
関係者。
便利な言葉だった。
生きている時には学生で、死ねば関係者になる。
ふと西野は気になった。隣の車両に、新聞を読む男がいた。
五十代後半。背広は古いが、靴は磨かれている。髪は薄く、顔にこれといった特徴はない。新聞の持ち方が、読んでいる人間のものではなかった。紙面を見ているようで、窓の反射を使っていた。
西野は目を戻した。
見なかったことにした。
男も見なかった。
列車が尼崎を過ぎると、工場の煙突が流れた。西宮を過ぎる頃、空が少し広くなった。海はまだ見えない。だが、風の匂いが変わる。
大阪の空気は、役所と油と生活の匂いがする。
神戸の空気には、逃げ道の匂いがあった。
三宮で降りた。
新聞の男も降りた。
ただし、別の出口へ向かった。
偶然に見える距離だった。偶然に見せる必要を知っている距離でもあった。
西野は追わなかった。
神戸旧居留地へ向かった。
石造りの古いビルが並び、通りには外国商社の看板が出ていた。英語、ドイツ語、中国語、日本語。西ドイツ製の車が歩道に寄せて止まり、米軍関係者らしい男が台湾煙草を買っている。港の方から霧が流れ、ビルの角に溜まっていた。
ここは大阪ではない。
大阪では、国家は窓口に来る。
神戸では、国家は荷札について来る。
港の倉庫へ入った箱。
税関を通った書類。
中立国商社の封筒。
台湾経由の旅券。
米軍PXから流れたチョコレート。
東側から紛れ込んだ缶詰。
人間も、物と同じ顔をして運ばれる街だった。
BLUE ANCHORは、旧居留地の外れ、港へ下る坂の途中にあった。
昼間のバーは、眠っている店に見える。青い錨の小さな看板だけが、風に揺れていた。扉は閉まっている。窓の内側にはカーテン。だが、裏へ回る細い路地に、まだ新しい靴跡があった。
西野は表の扉を開けなかった。
裏口へ回った。
ノックはしない。
扉の横にあった古い郵便受けを一度だけ鳴らした。
中で椅子の動く音がした。
小窓が開く。
「まだ開いてないよ」
日本語だった。
ただし、語尾が少し硬い。
「王志明に会う」
「王さんは忙しい」
「加納誠から」
小窓の向こうの目が止まった。
すぐに扉が開いた。
中は暗かった。昼の光を嫌う店だった。カウンターには酒瓶が並び、壁には外国船の写真が貼られている。古いジャズのレコードが、針を落とされないまま置かれていた。奥にビリヤード台。その横に、米軍PX流れのチョコレート缶。
バーテンダーは四十代の男だった。白いシャツに黒いベスト。顔は日本人にも中国人にも見える。どちらにも見える顔は、神戸では役に立つ。
「こちらへ」
西野は奥の部屋へ通された。
そこに王志明がいた。
四十代後半。痩せている。髪は撫でつけられ、指には銀の指輪。机の上には、紙が多かった。船荷証券、旅券、領収書、為替票、米ドル、台湾ドル、西日本円、見慣れない人民中央銀行券。
どれも、長く扱われた紙の柔らかさをしていた。
壁には古い青天白日旗が、額に入れずにピンで留められていた。
王は立ち上がらなかった。
「西野芳彦さん」
発音は正確だった。
正確すぎて、名前が少し他人のもののように聞こえた。
「そうです」
王は机の上の紙束を、指でわずかに揃えた。
「加納を知っている人」
「知っていました」
王は細い煙草に火をつけた。
銀の指輪が、ライターの火に光った。
「日本語は便利ですね。知っている、知っていた。ひとつ音を足すだけで、人が消える」
西野は何も言わなかった。
王は煙草を灰皿の縁に置いた。
「これが、あなたへの紙です」
机の上に、小さな青い封筒があった。
王はそれを指で押さえた。
まだ渡さない。
「ただし、まだ渡しません」
「なぜ」
「紙には値段があります」
「金が要るなら言え」
王は微笑した。
「金は、もう加納がくれました。私が見たいのは、別のものです」
「何だ」
「あなたの身分証を」
西野は市役所の身分証を出した。
王は手に取り、机の引き出しを開けた。
中から、古い旅券を一冊出す。
中国名。英語名。写真。印。
何度も国境を越えた紙の顔だった。
「私の身分証です」
「比べているのか」
「紙の嘘は読みやすい。人間よりましです」
王は西野の身分証と、自分の古い旅券を並べた。
「あなたの名前は、紙の上ではきれいすぎる。きれいな名前は、だいたい誰かが作った名前です」
西野は身分証をしまった。
「作った名前でも、二十五年使えば汚れる」
王は煙草の灰を落とした。
「市役所は、偽名を古くするのに便利な場所ですね」
西野は椅子に座った。
「藤堂鶴彦に会いたい」
王はすぐには答えなかった。
煙草を灰皿に置き、青い封筒を取り上げた。
「条件は」
西野が言った。
王は首を振った。
「ありません」
「金を取らないのか」
「加納が先に払っています」
「何で」
王は少しだけ黙った。
「死で」
言葉は低かった。
芝居ではなかった。
王は封筒を差し出した。
西野は受け取った。
中には、ホテルの名刺が一枚だけ入っていた。
HOTEL SEABOURNE
旧居留地七番館
裏に、鉛筆で部屋番号。
四〇二。
西野は名刺を見た。
「ここに行けば会えるのか」
「行けば、何かに会えます」
「藤堂ではない可能性もある」
「もちろん」
王は机の上の紙束から、別の船荷証券を抜き、端を揃えた。
「殺しに来る人間と、助けに来る人間は、部屋に入るまで区別がつきません。あなたの場合、両方です」
西野は名刺をしまった。
「藤堂は、俺を待っているのか」
王は紙を扱う手を止めた。
「藤堂さんが何を待っているかは、私の商品ではありません」
「知ってはいるのか」
「知っていることと、売れることは違います」
部屋の外で、グラスの触れる音がした。
西野はカーテンの隙間を見た。
向かいの喫茶店に、新聞を読む男がいた。
列車で見た男だった。
五十代後半。磨かれた靴。新聞の持ち方。読んでいない新聞。
王が言った。
「神戸で新聞を読む人間は、だいたい新聞を読んでいません」
「知り合いか」
「私の知り合いは、もっと品が悪い」
王はカーテンを閉じた。
「西側です。たぶん公安。古い目ですね」
「名前は」
「情報として売るほど知ってる訳では無い」
「なら、知らないということか」
「知らないことにも種類があります」
王はそう言って、煙草を消した。
西野は立ち上がった。
「代金の残りは」
「ありません」
「商売人らしくないな」
「商売は、いつも金を取ることではありません」
王は古い旅券を引き出しへ戻した。
「時々、借りを選ぶことです。金より長持ちします」
西野は扉へ向かった。
王の声が後ろから来た。
「西野さん」
西野は振り返らなかった。
「藤堂に会うなら、一つだけ覚えておくといい。亡命者は、祖国を捨てた人間ではありません」
「では何だ」
「祖国に捨てられる前に、先に逃げた人間です」
西野は何も言わず、奥の部屋を出た。
バーのカウンターでは、バーテンダーがグラスを磨いていた。まだ客はいない。昼のBLUE ANCHORは、夜のふりをしているだけだった。
路地へ出ると、海の匂いが強くなっていた。
向かいの喫茶店の席に、新聞の男はまだいた。
西野は見なかった。
見なかったが、新聞の向こうから見られていることは分かった。
旧居留地七番館。
藤堂鶴彦。
四〇二号室。
西野は歩き出した。
神戸の石畳は、雨も降っていないのに湿っていた。
この街では、逃げた人間の足跡だけが乾かない。
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