第十五話 教官
HOTEL SEABOURNEは、旧居留地七番館の三階から上を使っていた。
一階には西ドイツ商社の事務所があり、二階には中立国保険会社の看板が出ている。ホテルの入口は建物の横手にひっそりとあり、看板も小さかった。長期滞在者用のホテルだった。観光客が泊まる場所ではない。観光という言葉を、神戸のこの一角はもう何年も信じていないように見えた。
石段は濡れていなかった。
だが、海の匂いがしていた。
西野芳彦は、入口の手前で一度だけ足を止めた。
向かいの喫茶店には、新聞の男がいた。
列車の中で新聞を読んでいた男。
BLUE ANCHORの向かいで新聞を読んでいた男。
いまも新聞を読んでいる男。
新聞は変わっていた。
男は変わっていなかった。
西野は見なかった。
見なかったことにして、ホテルへ入った。
ロビーは狭かった。磨かれた木の床。真鍮の古いベル。壁には神戸港の古い写真が掛かっている。日本語より英語が先に書かれた案内板。受付の老女は、こちらを見る前から宿泊客でないことを知っている眼をしていた。
「ご予約ですか」
「四〇二号室へ」
「お名前を」
西野は王志明から受け取った名刺を出した。
老女はそれを見た。
表情は変えなかった。
「四階へどうぞ。エレベーターは動きません」
「故障ですか」
「神戸では、古いものはだいたい故障しています」
老女は鍵束を触り、何も渡さなかった。
「四〇二は、開いております」
西野は階段へ向かった。
ふと踊り場の窓から、通りを見た。
向かいの舗道に、黒いコートの女が立っていた。
林美沙だった。
BLUE ANCHORを出たあと、路地のガラスに彼女の影が二度映った。尾行とは呼べなかった。足取りも距離の取り方も、あまりに素人だった。
加納の死は、彼女をここまで歩かせた。
林はホテルを見上げていた。
この建物の中に何があるかは知らない。
だが、加納誠の死がこの方向を向いていることだけは、もう嗅ぎ取っている。
西野は窓から離れた。
ここから先は、彼女が見る場所ではない。
少なくとも、まだ。
階段を上がる。
踊り場ごとに、古い港の写真が掛かっていた。戦前の神戸港。軍艦の影。外国商館。背広の男たち。写真の中の人間はみな、まだこの国が二つに割れることを知らない顔をしていた。
四階の廊下は静かだった。
厚い絨毯。古い壁紙。港側の窓には薄いカーテン。どこかの部屋で、英語のラジオが小さく流れている。商社マンか、亡命者か、情報屋か、区別する意味はなかった。このホテルでは、誰も本当の職業では泊まっていない。
四〇二号室の前で、西野は立ち止まった。
銃は内ポケットの奥にある。
ノックはしなかった。
扉の取っ手に手をかける。
開いた。
部屋の中は薄暗かった。
窓の外に港が見えた。灰色の海、倉庫、鈍い光。部屋には古いベッド、机、椅子、灰皿、半分だけ残ったウイスキーの瓶がある。暖房は入っていたが、部屋は十分には暖まっていなかった。
窓際に、男が立っていた。
背を向けている。
痩せた背中だった。上着は少し大きすぎる。右足に重心が残り、左足を少し庇っている。肩は落ちているが、立ち方のどこかに昔の直線があった。
西野は銃を抜いた。
音はなかった。
銃口を背中へ向ける。
その時、二十五年前の冬が戻った。
東京の訓練所は、冬になると窓の内側まで凍った。少年たちは手を擦りながら、薄い机の前に座った。藤堂鶴彦は黒板に名前を書いた。
筆圧を変えろ。
癖を殺せ。
自分の名前を、自分のものと思うな。
名前は着るものだ。
必要なら脱げ。
十五歳の西野は、その言葉を覚えた。
覚えたというより、身体に入れられた。
男が振り向いた。
老いていた。
頬の肉が落ち、髪は白く、目の下に深い線がある。だが目だけは昔と同じだった。相手に嘘をつかせる前から、嘘の置き場所を知っている目。
藤堂鶴彦だった。
西野の銃口は、動かなかった。
だが、指が一瞬だけ止まった。
藤堂はその一瞬を見た。
昔と同じように。
「撃つ前に、加納を殺した理由を言え」
第一声が、それだった。
西野は答えなかった。
藤堂は椅子へ歩いた。左足を少し引きずる。腰を下ろす時、顔をわずかにしかめた。
「年を取ると、座るだけで政治が要る」
「立て」
西野は言った。
「撃ちやすいようにか」
「逃げにくいようにや」
藤堂は笑った。
「大阪弁が板についたな」
「答えろ」
「先にお前が答えろ。加納をなぜ殺した」
「任務だった」
「誰の任務だ」
「東の処分命令だ」
「東とは誰だ」
藤堂の声は静かだった。
「東京か。国家保衛部か。葛城か。モスクワか」
西野は銃を向けたまま言った。
「加納は接触線だった」
「誰への」
「お前への」
藤堂は黙った。
その沈黙は、叱責より重かった。
西野は続けた。
「山下、救援会、九条の印刷所。加納は藤堂への線だった。処分命令は、その線を切るためだ」
「誰にそう教わった」
「状況だ」
「状況はよく嘘をつく」
「人間よりましだ」
藤堂は少し笑った。
「それは誰の言葉だ。神戸の商売人か」
西野は答えなかった。
藤堂は机の上の煙草を一本取った。火はつけなかった。ただ、指に挟んだ。
「加納は、お前を売るための線じゃない」
西野は銃を下げなかった。
「では何だ」
「お前を逃がすために送った」
部屋の中の音が消えた。
港の汽笛も、遠くの車も、英語のラジオも、すべて一度なくなったように感じた。
藤堂は続けた。
「山下は意味を知らなかった。使い走りだ。紙を運ぶ男だった。加納も全部は知らなかった。だが、あの子はお前に警告を渡そうとしていた」
「警告」
「東へ帰るな」
西野の指が、ほんの少しだけ銃把を締めた。
加納の声が戻った。
東へ……帰るな。
「それを、あの子は言ったはずだ」
藤堂は言った。
西野は答えなかった。
「聞いたのか」
答えなかった。
「聞いたんだな」
藤堂は煙草を灰皿に置いた。
「お前は、救いの手を撃った」
西野は銃を向けたままだった。
銃は便利だった。
向けている限り、答えなくて済む。
「お前が送ったのか」
「そうだ」
「加納が死ぬ可能性を知っていたか」
「知っていた」
「なら、お前も殺した」
藤堂は頷いた。
「そうだ」
その答えは早かった。
早すぎて、西野の怒りは行き場を失った。
藤堂は続けた。
「俺に、お前を責める資格はない。俺はお前を十五で撃ったようなものだ。弾の代わりに、名前を渡しただけでな」
西野は黙った。
「だが、加納を撃ったのはお前だ」
「任務だった」
「その言葉は便利だ」
藤堂は西野を見た。
「昔、俺がお前に教えたからな」
銃口の先にいる男は、標的だった。
同時に、過去だった。
過去は撃ちにくい。
過去は死んでも、死体が残らないからだ。
西野は言った。
「俺に何をさせるつもりだった」
「帰還命令を受けるな、と伝えるつもりだった」
「なぜ」
「帰れば殺される」
「東が俺を?」
「お前だけじゃない」
藤堂は少し身体を前に倒した。
「古い配置員は、いま整理の対象だ。お前たちは長く西に居すぎた。家族を持った。市役所に座った。町内会に名前を出した。娘の進路を気にするようになった」
西野は何も言わなかった。
「配置員は、長く潜るほど資産になる。だが、長すぎると危険物になる。いまの東京は、それを知っている」
「東京は変わったと聞いている」
「聞いているだけでは足りん」
藤堂は低く言った。
「お前が覚えている東京は、もうない。いまの東京には、外資ホテルがあり、党員の子弟が西独車に乗り、ロシア語で考える日本人官僚がいる。労働者は共同住宅からトロリーバスで工場へ行く。相撲も歌舞伎も残った。神社も、皇室の匂いを抜かれて残った。何もかも残ったようで、別物になった」
藤堂は煙草に火をつけた。
煙が細く上がる。
「革命は終わった。終わった革命を管理する役人だけが残った」
「お前もその役人だった」
「そうだ」
「なぜ逃げた」
「粛清される前に」
王志明の言葉が、部屋の隅で静かに戻った。
亡命者は、祖国を捨てた人間ではありません。
祖国に捨てられる前に、先に逃げた人間です。
西野は言った。
「自分だけ逃げたのか」
「そうだ」
「俺たちを残して」
「そうだ」
藤堂は言い訳をしなかった。
言い訳をしないことが、罪を軽くするわけではない。
むしろ重くした。
西野は撃てた。
ここで撃てば、任務は進む。
加納の死にも、意味らしいものがつく。
葛城に提出できる答えになる。
藤堂はそれを分かっている顔で、煙草を吸った。
「お前は、俺を殺すために来たと思っている」
「違うのか」
「半分はな」
「残りは」
「お前は俺を表に出すための餌だ」
西野の銃口は動かなかった。
「誰の」
「東京の」
藤堂は言った。
「お前なら俺を見つける。俺も、お前なら会う。連中はそれを知っている」
「俺が殺せば」
「俺は死ぬ。お前は帰る。その途中で消える」
「なぜ断言できる」
「俺がそういう仕組みを作ったことがあるからだ」
藤堂は灰皿に煙草を置いた。
「昔は、俺たちが人を使った。いまは、俺たちが使われる番だ」
西野は、初めて銃口をわずかに下げた。
ほんの数センチだった。
藤堂はそれを見た。
「まだ撃つ気はあるか」
「ある」
「なら早く撃て。年寄りは待たされると、死ぬ前に余計なことを喋る」
「喋れ」
「命令か」
「市役所の聞き取りや」
藤堂は少し笑った。
「うまくなったな」
その時だった。
廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。
続いて、低い声。
短い怒号。
銃声。
一発。
藤堂は煙草を消した。
「来たな」
西野は扉の方を向いた。
「西か」
「東の方が少し早かった」
廊下で、誰かが走る音がする。
藤堂は立ち上がった。左足を庇いながら、ベッドの下から古い鞄を引き出す。
「何だそれは」
「年寄りの保険だ」
「銃か」
「紙だ」
藤堂は鞄を持った。
「銃は若い者に任せる」
二発目の銃声。
今度は近かった。
部屋のドアの下から、煙のようなものが薄く入ってきた。消火剤か、発煙筒か。
西野は銃を構え直した。
藤堂は、昔と同じ声で言った。
「西野」
その呼び方に、少年の頃の自分が一瞬だけ反応した。
「今度は、目を見るな」
ドアノブが動いた。
西野は撃つ位置を変えた。
標的だった男が、背中の後ろにいた。
守るべき相手ではない。
まだ、そうではない。
だが、撃つ相手でもなくなっていた。
ドアが開いた。
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