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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十五話 教官

HOTEL SEABOURNEは、旧居留地七番館の三階から上を使っていた。


一階には西ドイツ商社の事務所があり、二階には中立国保険会社の看板が出ている。ホテルの入口は建物の横手にひっそりとあり、看板も小さかった。長期滞在者用のホテルだった。観光客が泊まる場所ではない。観光という言葉を、神戸のこの一角はもう何年も信じていないように見えた。


石段は濡れていなかった。

だが、海の匂いがしていた。


西野芳彦は、入口の手前で一度だけ足を止めた。

向かいの喫茶店には、新聞の男がいた。


列車の中で新聞を読んでいた男。

BLUE ANCHORの向かいで新聞を読んでいた男。

いまも新聞を読んでいる男。

新聞は変わっていた。

男は変わっていなかった。

西野は見なかった。


見なかったことにして、ホテルへ入った。

ロビーは狭かった。磨かれた木の床。真鍮の古いベル。壁には神戸港の古い写真が掛かっている。日本語より英語が先に書かれた案内板。受付の老女は、こちらを見る前から宿泊客でないことを知っている眼をしていた。


「ご予約ですか」

「四〇二号室へ」

「お名前を」


西野は王志明から受け取った名刺を出した。


老女はそれを見た。

表情は変えなかった。


「四階へどうぞ。エレベーターは動きません」

「故障ですか」

「神戸では、古いものはだいたい故障しています」


老女は鍵束を触り、何も渡さなかった。


「四〇二は、開いております」


西野は階段へ向かった。

ふと踊り場の窓から、通りを見た。

向かいの舗道に、黒いコートの女が立っていた。

林美沙だった。


BLUE ANCHORを出たあと、路地のガラスに彼女の影が二度映った。尾行とは呼べなかった。足取りも距離の取り方も、あまりに素人だった。

加納の死は、彼女をここまで歩かせた。

林はホテルを見上げていた。

この建物の中に何があるかは知らない。

だが、加納誠の死がこの方向を向いていることだけは、もう嗅ぎ取っている。


西野は窓から離れた。

ここから先は、彼女が見る場所ではない。

少なくとも、まだ。

階段を上がる。


踊り場ごとに、古い港の写真が掛かっていた。戦前の神戸港。軍艦の影。外国商館。背広の男たち。写真の中の人間はみな、まだこの国が二つに割れることを知らない顔をしていた。


四階の廊下は静かだった。


厚い絨毯。古い壁紙。港側の窓には薄いカーテン。どこかの部屋で、英語のラジオが小さく流れている。商社マンか、亡命者か、情報屋か、区別する意味はなかった。このホテルでは、誰も本当の職業では泊まっていない。


四〇二号室の前で、西野は立ち止まった。

銃は内ポケットの奥にある。

ノックはしなかった。

扉の取っ手に手をかける。

開いた。

部屋の中は薄暗かった。


窓の外に港が見えた。灰色の海、倉庫、鈍い光。部屋には古いベッド、机、椅子、灰皿、半分だけ残ったウイスキーの瓶がある。暖房は入っていたが、部屋は十分には暖まっていなかった。


窓際に、男が立っていた。

背を向けている。

痩せた背中だった。上着は少し大きすぎる。右足に重心が残り、左足を少し庇っている。肩は落ちているが、立ち方のどこかに昔の直線があった。


西野は銃を抜いた。

音はなかった。

銃口を背中へ向ける。


その時、二十五年前の冬が戻った。



東京の訓練所は、冬になると窓の内側まで凍った。少年たちは手を擦りながら、薄い机の前に座った。藤堂鶴彦は黒板に名前を書いた。


筆圧を変えろ。

癖を殺せ。

自分の名前を、自分のものと思うな。


名前は着るものだ。

必要なら脱げ。



十五歳の西野は、その言葉を覚えた。

覚えたというより、身体に入れられた。


男が振り向いた。


老いていた。

頬の肉が落ち、髪は白く、目の下に深い線がある。だが目だけは昔と同じだった。相手に嘘をつかせる前から、嘘の置き場所を知っている目。


藤堂鶴彦だった。


西野の銃口は、動かなかった。

だが、指が一瞬だけ止まった。

藤堂はその一瞬を見た。

昔と同じように。


「撃つ前に、加納を殺した理由を言え」

第一声が、それだった。


西野は答えなかった。


藤堂は椅子へ歩いた。左足を少し引きずる。腰を下ろす時、顔をわずかにしかめた。


「年を取ると、座るだけで政治が要る」

「立て」


西野は言った。


「撃ちやすいようにか」

「逃げにくいようにや」


藤堂は笑った。


「大阪弁が板についたな」

「答えろ」

「先にお前が答えろ。加納をなぜ殺した」

「任務だった」

「誰の任務だ」

「東の処分命令だ」

「東とは誰だ」


藤堂の声は静かだった。


「東京か。国家保衛部か。葛城か。モスクワか」


西野は銃を向けたまま言った。


「加納は接触線だった」

「誰への」

「お前への」


藤堂は黙った。

その沈黙は、叱責より重かった。

西野は続けた。


「山下、救援会、九条の印刷所。加納は藤堂への線だった。処分命令は、その線を切るためだ」

「誰にそう教わった」

「状況だ」

「状況はよく嘘をつく」

「人間よりましだ」


藤堂は少し笑った。


「それは誰の言葉だ。神戸の商売人か」


西野は答えなかった。


藤堂は机の上の煙草を一本取った。火はつけなかった。ただ、指に挟んだ。


「加納は、お前を売るための線じゃない」


西野は銃を下げなかった。


「では何だ」

「お前を逃がすために送った」


部屋の中の音が消えた。

港の汽笛も、遠くの車も、英語のラジオも、すべて一度なくなったように感じた。

藤堂は続けた。


「山下は意味を知らなかった。使い走りだ。紙を運ぶ男だった。加納も全部は知らなかった。だが、あの子はお前に警告を渡そうとしていた」

「警告」

「東へ帰るな」


西野の指が、ほんの少しだけ銃把を締めた。

加納の声が戻った。

東へ……帰るな。


「それを、あの子は言ったはずだ」


藤堂は言った。


西野は答えなかった。


「聞いたのか」


答えなかった。


「聞いたんだな」


藤堂は煙草を灰皿に置いた。


「お前は、救いの手を撃った」


西野は銃を向けたままだった。


銃は便利だった。

向けている限り、答えなくて済む。


「お前が送ったのか」

「そうだ」

「加納が死ぬ可能性を知っていたか」

「知っていた」

「なら、お前も殺した」


藤堂は頷いた。


「そうだ」


その答えは早かった。

早すぎて、西野の怒りは行き場を失った。

藤堂は続けた。


「俺に、お前を責める資格はない。俺はお前を十五で撃ったようなものだ。弾の代わりに、名前を渡しただけでな」


西野は黙った。


「だが、加納を撃ったのはお前だ」

「任務だった」

「その言葉は便利だ」


藤堂は西野を見た。


「昔、俺がお前に教えたからな」


銃口の先にいる男は、標的だった。

同時に、過去だった。

過去は撃ちにくい。

過去は死んでも、死体が残らないからだ。

西野は言った。


「俺に何をさせるつもりだった」

「帰還命令を受けるな、と伝えるつもりだった」

「なぜ」

「帰れば殺される」

「東が俺を?」

「お前だけじゃない」


藤堂は少し身体を前に倒した。


「古い配置員は、いま整理の対象だ。お前たちは長く西に居すぎた。家族を持った。市役所に座った。町内会に名前を出した。娘の進路を気にするようになった」


西野は何も言わなかった。


「配置員は、長く潜るほど資産になる。だが、長すぎると危険物になる。いまの東京は、それを知っている」

「東京は変わったと聞いている」

「聞いているだけでは足りん」


藤堂は低く言った。


「お前が覚えている東京は、もうない。いまの東京には、外資ホテルがあり、党員の子弟が西独車に乗り、ロシア語で考える日本人官僚がいる。労働者は共同住宅からトロリーバスで工場へ行く。相撲も歌舞伎も残った。神社も、皇室の匂いを抜かれて残った。何もかも残ったようで、別物になった」


藤堂は煙草に火をつけた。

煙が細く上がる。


「革命は終わった。終わった革命を管理する役人だけが残った」

「お前もその役人だった」

「そうだ」

「なぜ逃げた」

「粛清される前に」


王志明の言葉が、部屋の隅で静かに戻った。


亡命者は、祖国を捨てた人間ではありません。

祖国に捨てられる前に、先に逃げた人間です。


西野は言った。


「自分だけ逃げたのか」

「そうだ」

「俺たちを残して」

「そうだ」


藤堂は言い訳をしなかった。

言い訳をしないことが、罪を軽くするわけではない。

むしろ重くした。


西野は撃てた。


ここで撃てば、任務は進む。

加納の死にも、意味らしいものがつく。

葛城に提出できる答えになる。


藤堂はそれを分かっている顔で、煙草を吸った。


「お前は、俺を殺すために来たと思っている」

「違うのか」

「半分はな」

「残りは」

「お前は俺を表に出すための餌だ」


西野の銃口は動かなかった。


「誰の」

「東京の」


藤堂は言った。


「お前なら俺を見つける。俺も、お前なら会う。連中はそれを知っている」

「俺が殺せば」

「俺は死ぬ。お前は帰る。その途中で消える」

「なぜ断言できる」

「俺がそういう仕組みを作ったことがあるからだ」


藤堂は灰皿に煙草を置いた。


「昔は、俺たちが人を使った。いまは、俺たちが使われる番だ」


西野は、初めて銃口をわずかに下げた。

ほんの数センチだった。

藤堂はそれを見た。


「まだ撃つ気はあるか」

「ある」

「なら早く撃て。年寄りは待たされると、死ぬ前に余計なことを喋る」

「喋れ」

「命令か」

「市役所の聞き取りや」


藤堂は少し笑った。


「うまくなったな」


その時だった。


廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。

続いて、低い声。

短い怒号。

銃声。


一発。


藤堂は煙草を消した。


「来たな」


西野は扉の方を向いた。


「西か」

「東の方が少し早かった」


廊下で、誰かが走る音がする。


藤堂は立ち上がった。左足を庇いながら、ベッドの下から古い鞄を引き出す。


「何だそれは」

「年寄りの保険だ」

「銃か」

「紙だ」


藤堂は鞄を持った。


「銃は若い者に任せる」


二発目の銃声。

今度は近かった。


部屋のドアの下から、煙のようなものが薄く入ってきた。消火剤か、発煙筒か。

西野は銃を構え直した。

藤堂は、昔と同じ声で言った。


「西野」


その呼び方に、少年の頃の自分が一瞬だけ反応した。


「今度は、目を見るな」


ドアノブが動いた。

西野は撃つ位置を変えた。

標的だった男が、背中の後ろにいた。

守るべき相手ではない。


まだ、そうではない。

だが、撃つ相手でもなくなっていた。


ドアが開いた。

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