第十六話 ホテル襲撃
ドアが開いた。
最初に入ってきたのは、ホテルのボーイだった。
白い上着。黒いズボン。銀の盆。盆の上には、蓋をしたコーヒーポットとカップが二つ載っていた。顔は若い。緊張しているようにも、していないようにも見えた。
西野芳彦は撃たなかった。
撃つには、若すぎた。
若すぎるということは、理由にならない。
西野はそのことを知っていた。
それでも、一瞬だけ理由になった。
ボーイは部屋へ半歩入った。
盆の上のコーヒーポットが傾いた。
傾き方が、給仕のものではなかった。
西野は銃口を下げずに、身体だけを横へずらした。
ポットの蓋が跳ねた。
中から短い銃身が出た。
銃声。
カップが割れた。壁の絵が裂けた。港の古い写真の上に、白い粉のような漆喰が散った。
西野は撃った。
ボーイの肩が後ろへ弾けた。銀の盆が床を転がり、カップの破片が絨毯に沈む。若い男は銃を落とし、倒れながら何かを言った。
ロシア語ではなかった。
日本語でもなかった。
息だった。
廊下から、さらに足音が来る。
藤堂鶴彦が低く言った。
「ホテルの教育が悪い」
「黙れ」
西野はドア脇へ寄った。
銃を持つ手は震えない。身体は、二十五年前の教えを覚えていた。部屋の角。扉の蝶番。窓までの距離。ベッドの下。浴室。開いた鞄。老人の足。
藤堂は鞄を持ったまま、ベッドの陰へ動いた。左足を庇っている。速くない。だが、迷いがない。
二人目は背広だった。
西側の背広ではない。
仕立てが違う。動きが違う。銃の構えが違う。
東側だった。
男がドアの隙間から入る前に、西野は床の銀の盆を蹴った。盆が廊下へ滑り、男の足元で跳ねた。
男の視線が、一瞬だけ落ちる。
西野はその一瞬に撃った。
男は廊下の壁に肩をぶつけて倒れた。
藤堂が言った。
「腕は落ちていないな」
「次に喋ったら、お前を撃つ」
「それは困る。まだ渡す紙がある」
廊下で別の声がした。
女の声だった。
「西野同志」
西野は動かなかった。
その声を、もう知っていた。
鶴橋の路地。
九条の印刷所。
窓の外の紺のスカーフ。
「任務はここまでです」
女は廊下の向こうにいた。姿は見えない。声だけが静かだった。
「藤堂鶴彦をこちらへ。あなたは武器を置いてください」
藤堂が笑った。
「随分丁寧だな。今の東京は、殺す前にも手続きがあるのか」
西野は答えなかった。
廊下の向こうの女が続けた。
「西野芳彦。日本人民共和国国家保衛部、西部長期配置員。配置期間二十五年。帰還命令発動済み」
名前を読み上げる声だった。
書類の声。
「あなたの信用確認は完了しています」
西野は加納の顔を思い出した。
紙を握った手。
最後の息。
東へ帰るな。
「なら、通せ」
西野は言った。
「任務はまだ終わっていない」
「終わりました」
女は言った。
「藤堂はまだ生きている」
「あなたも含めて、です」
藤堂が、西野の背後で小さく息を吐いた。
「分かりやすくなったな」
「黙れと言った」
「いや、今のは喋る価値がある」
西野は廊下へ銃を向けた。
「名前は」
短い沈黙。
「片桐有里」
女が答えた。
「国家保衛部第五局、西部処理班」
「若いな」
「あなたは古い」
「知っている」
「知っているなら、置いてください。あなたは西に長く居すぎました」
片桐の声には、憎しみはなかった。
軽蔑も、まだなかった。
もっと正確なものだった。
診断。
「匂いが変わっています」
その言葉が、なぜか紀子の声と重なった。
今日は、市役所の匂いじゃないのね。
西野は銃を下げなかった。
「片桐」
「はい」
「東京は、俺に何と言っている」
「総括せよ、と」
「俺をか」
「任務をです」
「同じことだ」
「そう思うのが、あなたの劣化です」
廊下の遠くで、別の銃声がした。
西側の銃だった。
音が重い。
叫び声。
英語。
日本語。
「下がれ」「撃つな」「四階を押さえろ」
西側公安が来ている。
あるいは、最初からいた。
ホテル全体が、いま二つの国家に裂かれていた。
部屋の中に東がいる。
廊下の向こうに西がいる。
港の霧が窓の外からそれを見ている。
藤堂が言った。
「西側も遅れて来た。昔からそうだ。間に合わないが、主張はする」
「出口は」
西野が聞いた。
「非常階段。浴室の窓の外」
「足は」
「引きずるが、使える」
「鞄は」
「置いていくなら、俺も置いていけ」
「面倒な年寄りだ」
「育てた覚えはある」
西野は部屋の中を一瞬で見た。
扉は使えない。
窓も正面は無理だ。
浴室の小窓。外に細い非常用の足場。そこから隣室のベランダへ移れるかもしれない。
ただし藤堂の足では遅い。
片桐の声がした。
「西野同志。十秒だけ待ちます」
「長いな」
「敬意です」
「ありがたい」
藤堂がぼそりと言った。
「若い者は、礼儀を覚えると殺しが遅くなる」
「お前は早すぎた」
「だから年を取れた」
西野はベッド脇のサイドテーブルを蹴った。
古いランプが倒れ、電球が割れる。部屋が一段暗くなった。
同時に、廊下へ二発撃った。
命中を狙わない。
音と破片だけでよかった。
西野は藤堂の腕を掴んだ。
「動け」
「老人虐待だ」
「黙れ」
二人は浴室へ入った。
浴室は狭く、白いタイルが割れていた。窓は小さい。外には非常用の鉄の足場が見える。雨は降っていないが、海の湿気で鉄が濡れている。
西野は窓を開けた。
古い金具が軋む。
藤堂が鞄を先に外へ出した。
「紙が先か」
「紙は濡れると死ぬ」
「人間もだ」
「人間は、濡れただけでは死なん」
その時、廊下側の部屋で爆発音がした。
大きくはない。発煙筒か、閃光弾。扉が内側へ跳ね、煙が浴室へ流れ込む。片桐たちが入ってきた。
西野は藤堂の背中を押した。
藤堂が窓から外へ出る。左足が引っかかり、顔をしかめた。
「痛むか」
「昔からだ」
「いつから」
「逃げた時から」
西野も外へ出た。
鉄の足場は細かった。四階の外壁に張りつくような通路。下には狭い路地。港へ下る坂が見える。昼間の光はもう薄く、旧居留地の石造りのビルが灰色に沈んでいた。
部屋の中から声。
「窓です!」
片桐。
西野は足場を進んだ。藤堂は遅い。鞄を抱え、左足を引きずっている。
「もっと早く歩け」
「二十五年遅れて来た男に言われたくない」
「置いていくぞ」
「置いていけるなら、とっくに撃っている」
藤堂の言うことは、たまに正しい。
それが腹立たしかった。
隣室の窓が開いていた。
西野が先に入り、藤堂を引き込む。
部屋には誰もいなかった。机の上にドイツ語の書類と、半分食べたチョコレート。外国商社の男の部屋だろう。壁に西ドイツのカレンダー。昭和ではなく、西暦だけが印刷されていた。
暦は、国を選ばない顔をする。
だが、どの暦も誰かの国に属している。
廊下へ出る。
銃声。
西野は藤堂を壁へ押しつけ、自分だけ顔を出した。
廊下の向こうで、西側公安の男が倒れていた。
その近くに、新聞の男がいた。
列車の男。
喫茶店の男。
彼は銃を構えていなかった。
若い公安に短く言っていた。
「撃つな。まだだ」
その声は低かった。
西野は一瞬だけ見た。
男も一瞬だけ、こちらを見た。
その目は、西野を捕まえようとしている目だった。
だが、殺そうとしている目ではなかった。
まだ。
また、その言葉だった。
「西か」
藤堂が聞いた。
「古い目だ」
「遠山かもしれんな」
「知っているのか」
「向こうも俺を知っている」
「人気者だな」
「年を取ると、敵だけが残る」
西野は別の廊下へ向かった。
ホテルの非常階段は、建物の裏にあった。古い鉄の階段。足を乗せるたびに音が響く。下にはホテルの裏庭、さらにその向こうに倉庫街へ抜ける細い道がある。
藤堂は階段を降りながら言った。
「昔、俺はお前に尾行を教えた」
「今喋ることか」
「尾行は撒ける。だが、自分の過去は撒けん」
「説教か」
「年寄りの特権だ」
上から声がした。
片桐だった。
「西野同志!」
西野は振り返らない。
片桐の足音は軽い。
訓練された軽さだった。
西野が若い頃、そうだったかもしれない足音。
「藤堂を置いてください!」
藤堂が呟いた。
「いつの間にか人気者だな」
西野は階段の踊り場で止まった。
藤堂を先へ行かせる。
「降りろ」
「お前は」
「少し話す」
「女と話すには、場所が悪い」
「年寄りは黙って降りろ」
藤堂は一瞬、西野を見た。
それから降りた。
片桐が踊り場に現れた。
紺のスカーフはしていなかった。代わりに、灰色のコート。手には小型の拳銃。年は二十代半ば。目が若い。若いというより、迷いがまだ磨かれていない。
「どいてください」
片桐は言った。
「どけば、俺はどうなる」
「回収されます」
「処分とどう違う」
「言葉が違います」
「それは大きいな」
片桐の眉がわずかに動いた。
「あなたは、冗談を言う人だったんですか」
「大阪に長くいると、うつる」
「資本主義の汚染ですね」
「生活や」
片桐は銃を構えたまま、少しだけ息を整えた。
「あなたは記録で読みました。十五歳で配置。二十五年潜伏。国家保衛部の長期配置員の中でも、最も成功した例の一つ」
「記録には、そう書いてあるのか」
「はい」
「妻と娘は?」
「任務外です」
西野は笑わなかった。
「それも記録か」
「事実です」
「事実は、書いた奴によって形が変わる」
「西の言い方です」
「東でも変わる」
片桐の目が細くなった。
「あなたは、もう戻れません」
「まだ帰ると言っていない」
「帰らなくても、戻れません」
風が吹いた。非常階段の鉄が冷たく鳴った。遠くで港の汽笛が聞こえる。
片桐は続けた。
「あなたたちの世代は、祖国を任務として教わった。私たちは違います。私たちは、そこで育ちました」
西野は何も言わなかった。
片桐の声は、少しだけ硬さを失った。
「私の育った住宅には、冬でも暖房が入りました。母は病院で金を出しませんでした。学校には昼食がありました。図書室には、東京で刷った本が並んでいた。子どもは、親の財布で医者に行くかどうかを決めません」
「東京は、そんなに清潔か」
「清潔とは言っていません」
「外資ホテルと西独車で発展した街だ」
「それだけではありません」
片桐は銃を構えたまま言った。
「西では、困った人間が窓口で頭を下げる。東では、生活は人民の権利です」
「国家が監視する代わりにか」
「国家が人民を見なければ、どうやって守るんですか」
「見るだけならいい。消すこともできる」
「人民を裏切れば」
片桐は迷わなかった。
「裏切り者を守る国は、人民の国ではありません」
西野は、彼女が嘘をついていないことを見た。
それが一番、始末に悪かった。
「俺は人民を裏切ったのか」
「あなたは生活に負けました」
「生活は敵か」
「任務より大きくなれば」
「それが、お前の国か」
「はい」
片桐は言った。
「私の国です」
その一言には、葛城の官僚的な冷たさはなかった。
熱があった。
熱のある言葉は、正しい時も、間違っている時も、よく燃える。
西野は銃を構えた。
片桐も構える。
二人の間に、階段の踊り場があった。狭い。どちらかが撃てば、どちらかが落ちる距離だった。
片桐の手は震えていない。
西野の手も震えていない。
ただし、片桐の目は西野を見ていた。
西野は目を見なかった。
撃つ時に目を見るな。
藤堂の教えは、まだ身体に残っている。
下で、藤堂が叫んだ。
「西野!」
その声に片桐の視線が一瞬落ちた。
西野は撃った。
片桐を撃たなかった。
踊り場の手すりを撃った。
鉄が跳ね、火花が散る。片桐が反射で身を引く。その瞬間、西野は階段を二段飛ばして降りた。
片桐は撃った。
弾は西野のコートの裾を裂いた。
肩ではない。足でもない。
まだ、撃ち殺すつもりではなかったのか。
あるいは、外したのか。
西野は振り返らなかった。
裏庭へ降りると、藤堂が壁にもたれていた。息が荒い。顔が白い。
「年寄りの保険は役に立ったか」
「保険はまだ鞄の中だ」
「足は」
「文句を言っている」
「歩け」
「命令されるのは久しぶりだ」
「懐かしむな」
二人は裏口から路地へ出た。
そこに王志明のところのバーテンダーがいた。
白いシャツに黒いベスト。顔は無表情。小さなトラックの荷台に、木箱が積まれている。
「王さんから」
それだけ言った。
西野は藤堂を荷台へ押し込んだ。
「どこへ」
「港です」
「安全か」
バーテンダーは初めて少し笑った。
「神戸でその質問は意味がない」
西野も荷台へ乗った。
トラックはすぐに走り出した。
路地を抜け、倉庫街へ向かう。ホテルの方で、さらに銃声が一発聞こえた。西側か東側か、もう分からない。サイレンが近づいてくる。海の匂いが強くなる。
藤堂は木箱にもたれて息を整えていた。
「お前は、俺を殺しに来た」
「まだ殺す気はある」
「そうか」
藤堂は目を閉じた。
「なら、急げ。俺を殺したい奴が増えすぎた」
西野はトラックの後方を見た。
遠く、ホテルの前に黒い車が停まっている。
その近くで、新聞の男が立っていた。
新聞はもう持っていない。
遠山という名かもしれない男は、走り去るトラックを見ていた。
追うでもなく、見送るでもなく。
西野は視線を戻した。
荷台の木箱には、英語と中国語で積荷名が書かれていた。
機械部品。
書籍。
缶詰。
神戸では、人間も同じように運ばれる。
藤堂が小さく言った。
「片桐を殺さなかったな」
「若かった」
「それは理由にならん」
「知っている」
「なら、なぜだ」
西野は答えなかった。
トラックは港へ下っていった。
空は低く、雨が来そうだった。
まだ降っていない雨の匂いが、荷台の中まで入ってきた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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