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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十六話 ホテル襲撃

ドアが開いた。


最初に入ってきたのは、ホテルのボーイだった。


白い上着。黒いズボン。銀の盆。盆の上には、蓋をしたコーヒーポットとカップが二つ載っていた。顔は若い。緊張しているようにも、していないようにも見えた。


西野芳彦は撃たなかった。

撃つには、若すぎた。

若すぎるということは、理由にならない。

西野はそのことを知っていた。

それでも、一瞬だけ理由になった。


ボーイは部屋へ半歩入った。

盆の上のコーヒーポットが傾いた。

傾き方が、給仕のものではなかった。

西野は銃口を下げずに、身体だけを横へずらした。


ポットの蓋が跳ねた。

中から短い銃身が出た。


銃声。


カップが割れた。壁の絵が裂けた。港の古い写真の上に、白い粉のような漆喰が散った。


西野は撃った。

ボーイの肩が後ろへ弾けた。銀の盆が床を転がり、カップの破片が絨毯に沈む。若い男は銃を落とし、倒れながら何かを言った。


ロシア語ではなかった。

日本語でもなかった。

息だった。


廊下から、さらに足音が来る。

藤堂鶴彦が低く言った。


「ホテルの教育が悪い」

「黙れ」


西野はドア脇へ寄った。

銃を持つ手は震えない。身体は、二十五年前の教えを覚えていた。部屋の角。扉の蝶番。窓までの距離。ベッドの下。浴室。開いた鞄。老人の足。


藤堂は鞄を持ったまま、ベッドの陰へ動いた。左足を庇っている。速くない。だが、迷いがない。


二人目は背広だった。


西側の背広ではない。

仕立てが違う。動きが違う。銃の構えが違う。


東側だった。


男がドアの隙間から入る前に、西野は床の銀の盆を蹴った。盆が廊下へ滑り、男の足元で跳ねた。


男の視線が、一瞬だけ落ちる。


西野はその一瞬に撃った。

男は廊下の壁に肩をぶつけて倒れた。


藤堂が言った。


「腕は落ちていないな」

「次に喋ったら、お前を撃つ」

「それは困る。まだ渡す紙がある」


廊下で別の声がした。

女の声だった。


「西野同志」


西野は動かなかった。

その声を、もう知っていた。


鶴橋の路地。

九条の印刷所。

窓の外の紺のスカーフ。


「任務はここまでです」


女は廊下の向こうにいた。姿は見えない。声だけが静かだった。


「藤堂鶴彦をこちらへ。あなたは武器を置いてください」


藤堂が笑った。


「随分丁寧だな。今の東京は、殺す前にも手続きがあるのか」


西野は答えなかった。

廊下の向こうの女が続けた。


「西野芳彦。日本人民共和国国家保衛部、西部長期配置員。配置期間二十五年。帰還命令発動済み」


名前を読み上げる声だった。

書類の声。


「あなたの信用確認は完了しています」


西野は加納の顔を思い出した。


紙を握った手。

最後の息。

東へ帰るな。


「なら、通せ」


西野は言った。


「任務はまだ終わっていない」

「終わりました」


女は言った。


「藤堂はまだ生きている」

「あなたも含めて、です」


藤堂が、西野の背後で小さく息を吐いた。


「分かりやすくなったな」

「黙れと言った」

「いや、今のは喋る価値がある」


西野は廊下へ銃を向けた。


「名前は」


短い沈黙。


「片桐有里」


女が答えた。


「国家保衛部第五局、西部処理班」

「若いな」

「あなたは古い」

「知っている」

「知っているなら、置いてください。あなたは西に長く居すぎました」


片桐の声には、憎しみはなかった。

軽蔑も、まだなかった。

もっと正確なものだった。


診断。


「匂いが変わっています」


その言葉が、なぜか紀子の声と重なった。

今日は、市役所の匂いじゃないのね。


西野は銃を下げなかった。


「片桐」

「はい」

「東京は、俺に何と言っている」

「総括せよ、と」

「俺をか」

「任務をです」

「同じことだ」

「そう思うのが、あなたの劣化です」


廊下の遠くで、別の銃声がした。

西側の銃だった。


音が重い。


叫び声。

英語。

日本語。

「下がれ」「撃つな」「四階を押さえろ」


西側公安が来ている。


あるいは、最初からいた。


ホテル全体が、いま二つの国家に裂かれていた。

部屋の中に東がいる。

廊下の向こうに西がいる。

港の霧が窓の外からそれを見ている。


藤堂が言った。


「西側も遅れて来た。昔からそうだ。間に合わないが、主張はする」

「出口は」


西野が聞いた。


「非常階段。浴室の窓の外」

「足は」

「引きずるが、使える」

「鞄は」

「置いていくなら、俺も置いていけ」

「面倒な年寄りだ」

「育てた覚えはある」


西野は部屋の中を一瞬で見た。


扉は使えない。

窓も正面は無理だ。

浴室の小窓。外に細い非常用の足場。そこから隣室のベランダへ移れるかもしれない。


ただし藤堂の足では遅い。

片桐の声がした。


「西野同志。十秒だけ待ちます」

「長いな」

「敬意です」

「ありがたい」


藤堂がぼそりと言った。


「若い者は、礼儀を覚えると殺しが遅くなる」

「お前は早すぎた」

「だから年を取れた」


西野はベッド脇のサイドテーブルを蹴った。

古いランプが倒れ、電球が割れる。部屋が一段暗くなった。


同時に、廊下へ二発撃った。


命中を狙わない。

音と破片だけでよかった。


西野は藤堂の腕を掴んだ。


「動け」

「老人虐待だ」

「黙れ」


二人は浴室へ入った。


浴室は狭く、白いタイルが割れていた。窓は小さい。外には非常用の鉄の足場が見える。雨は降っていないが、海の湿気で鉄が濡れている。


西野は窓を開けた。

古い金具が軋む。

藤堂が鞄を先に外へ出した。


「紙が先か」

「紙は濡れると死ぬ」

「人間もだ」

「人間は、濡れただけでは死なん」


その時、廊下側の部屋で爆発音がした。


大きくはない。発煙筒か、閃光弾。扉が内側へ跳ね、煙が浴室へ流れ込む。片桐たちが入ってきた。

西野は藤堂の背中を押した。

藤堂が窓から外へ出る。左足が引っかかり、顔をしかめた。


「痛むか」

「昔からだ」

「いつから」

「逃げた時から」


西野も外へ出た。


鉄の足場は細かった。四階の外壁に張りつくような通路。下には狭い路地。港へ下る坂が見える。昼間の光はもう薄く、旧居留地の石造りのビルが灰色に沈んでいた。


部屋の中から声。


「窓です!」


片桐。


西野は足場を進んだ。藤堂は遅い。鞄を抱え、左足を引きずっている。


「もっと早く歩け」

「二十五年遅れて来た男に言われたくない」

「置いていくぞ」

「置いていけるなら、とっくに撃っている」


藤堂の言うことは、たまに正しい。

それが腹立たしかった。


隣室の窓が開いていた。

西野が先に入り、藤堂を引き込む。


部屋には誰もいなかった。机の上にドイツ語の書類と、半分食べたチョコレート。外国商社の男の部屋だろう。壁に西ドイツのカレンダー。昭和ではなく、西暦だけが印刷されていた。


暦は、国を選ばない顔をする。

だが、どの暦も誰かの国に属している。


廊下へ出る。


銃声。


西野は藤堂を壁へ押しつけ、自分だけ顔を出した。

廊下の向こうで、西側公安の男が倒れていた。

その近くに、新聞の男がいた。


列車の男。

喫茶店の男。


彼は銃を構えていなかった。

若い公安に短く言っていた。


「撃つな。まだだ」


その声は低かった。

西野は一瞬だけ見た。


男も一瞬だけ、こちらを見た。

その目は、西野を捕まえようとしている目だった。

だが、殺そうとしている目ではなかった。


まだ。

また、その言葉だった。


「西か」


藤堂が聞いた。


「古い目だ」

「遠山かもしれんな」

「知っているのか」

「向こうも俺を知っている」

「人気者だな」

「年を取ると、敵だけが残る」


西野は別の廊下へ向かった。

ホテルの非常階段は、建物の裏にあった。古い鉄の階段。足を乗せるたびに音が響く。下にはホテルの裏庭、さらにその向こうに倉庫街へ抜ける細い道がある。


藤堂は階段を降りながら言った。


「昔、俺はお前に尾行を教えた」

「今喋ることか」

「尾行は撒ける。だが、自分の過去は撒けん」

「説教か」

「年寄りの特権だ」


上から声がした。


片桐だった。


「西野同志!」


西野は振り返らない。


片桐の足音は軽い。

訓練された軽さだった。

西野が若い頃、そうだったかもしれない足音。


「藤堂を置いてください!」


藤堂が呟いた。


「いつの間にか人気者だな」


西野は階段の踊り場で止まった。

藤堂を先へ行かせる。


「降りろ」

「お前は」

「少し話す」

「女と話すには、場所が悪い」

「年寄りは黙って降りろ」


藤堂は一瞬、西野を見た。

それから降りた。


片桐が踊り場に現れた。


紺のスカーフはしていなかった。代わりに、灰色のコート。手には小型の拳銃。年は二十代半ば。目が若い。若いというより、迷いがまだ磨かれていない。


「どいてください」


片桐は言った。


「どけば、俺はどうなる」

「回収されます」

「処分とどう違う」

「言葉が違います」

「それは大きいな」


片桐の眉がわずかに動いた。


「あなたは、冗談を言う人だったんですか」

「大阪に長くいると、うつる」

「資本主義の汚染ですね」

「生活や」


片桐は銃を構えたまま、少しだけ息を整えた。


「あなたは記録で読みました。十五歳で配置。二十五年潜伏。国家保衛部の長期配置員の中でも、最も成功した例の一つ」

「記録には、そう書いてあるのか」

「はい」

「妻と娘は?」

「任務外です」


西野は笑わなかった。


「それも記録か」

「事実です」

「事実は、書いた奴によって形が変わる」

「西の言い方です」

「東でも変わる」


片桐の目が細くなった。


「あなたは、もう戻れません」

「まだ帰ると言っていない」

「帰らなくても、戻れません」


風が吹いた。非常階段の鉄が冷たく鳴った。遠くで港の汽笛が聞こえる。


片桐は続けた。


「あなたたちの世代は、祖国を任務として教わった。私たちは違います。私たちは、そこで育ちました」


西野は何も言わなかった。

片桐の声は、少しだけ硬さを失った。


「私の育った住宅には、冬でも暖房が入りました。母は病院で金を出しませんでした。学校には昼食がありました。図書室には、東京で刷った本が並んでいた。子どもは、親の財布で医者に行くかどうかを決めません」

「東京は、そんなに清潔か」

「清潔とは言っていません」

「外資ホテルと西独車で発展した街だ」

「それだけではありません」


片桐は銃を構えたまま言った。


「西では、困った人間が窓口で頭を下げる。東では、生活は人民の権利です」

「国家が監視する代わりにか」

「国家が人民を見なければ、どうやって守るんですか」

「見るだけならいい。消すこともできる」

「人民を裏切れば」


片桐は迷わなかった。


「裏切り者を守る国は、人民の国ではありません」


西野は、彼女が嘘をついていないことを見た。


それが一番、始末に悪かった。


「俺は人民を裏切ったのか」

「あなたは生活に負けました」

「生活は敵か」

「任務より大きくなれば」

「それが、お前の国か」

「はい」


片桐は言った。


「私の国です」


その一言には、葛城の官僚的な冷たさはなかった。


熱があった。


熱のある言葉は、正しい時も、間違っている時も、よく燃える。


西野は銃を構えた。

片桐も構える。


二人の間に、階段の踊り場があった。狭い。どちらかが撃てば、どちらかが落ちる距離だった。


片桐の手は震えていない。

西野の手も震えていない。


ただし、片桐の目は西野を見ていた。

西野は目を見なかった。

撃つ時に目を見るな。


藤堂の教えは、まだ身体に残っている。


下で、藤堂が叫んだ。


「西野!」


その声に片桐の視線が一瞬落ちた。

西野は撃った。

片桐を撃たなかった。

踊り場の手すりを撃った。


鉄が跳ね、火花が散る。片桐が反射で身を引く。その瞬間、西野は階段を二段飛ばして降りた。


片桐は撃った。

弾は西野のコートの裾を裂いた。

肩ではない。足でもない。


まだ、撃ち殺すつもりではなかったのか。

あるいは、外したのか。


西野は振り返らなかった。


裏庭へ降りると、藤堂が壁にもたれていた。息が荒い。顔が白い。


「年寄りの保険は役に立ったか」

「保険はまだ鞄の中だ」

「足は」

「文句を言っている」

「歩け」

「命令されるのは久しぶりだ」

「懐かしむな」


二人は裏口から路地へ出た。


そこに王志明のところのバーテンダーがいた。

白いシャツに黒いベスト。顔は無表情。小さなトラックの荷台に、木箱が積まれている。


「王さんから」


それだけ言った。


西野は藤堂を荷台へ押し込んだ。


「どこへ」

「港です」

「安全か」


バーテンダーは初めて少し笑った。


「神戸でその質問は意味がない」


西野も荷台へ乗った。

トラックはすぐに走り出した。


路地を抜け、倉庫街へ向かう。ホテルの方で、さらに銃声が一発聞こえた。西側か東側か、もう分からない。サイレンが近づいてくる。海の匂いが強くなる。


藤堂は木箱にもたれて息を整えていた。


「お前は、俺を殺しに来た」

「まだ殺す気はある」

「そうか」


藤堂は目を閉じた。


「なら、急げ。俺を殺したい奴が増えすぎた」


西野はトラックの後方を見た。


遠く、ホテルの前に黒い車が停まっている。

その近くで、新聞の男が立っていた。


新聞はもう持っていない。


遠山という名かもしれない男は、走り去るトラックを見ていた。

追うでもなく、見送るでもなく。


西野は視線を戻した。


荷台の木箱には、英語と中国語で積荷名が書かれていた。


機械部品。

書籍。

缶詰。


神戸では、人間も同じように運ばれる。


藤堂が小さく言った。


「片桐を殺さなかったな」

「若かった」

「それは理由にならん」

「知っている」

「なら、なぜだ」


西野は答えなかった。

トラックは港へ下っていった。

空は低く、雨が来そうだった。


まだ降っていない雨の匂いが、荷台の中まで入ってきた。

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