第十七話 港の雨
雨は、港へ下りる途中で降りはじめた。
最初は霧と区別がつかなかった。神戸の坂道を下るトラックの荷台に、細い水が混じる。古い木箱の表面が黒くなり、英語と中国語で書かれた積荷名が滲んでいった。
機械部品。
書籍。
缶詰。
その横で、藤堂鶴彦が咳をした。
咳は乾いていた。若い男の咳ではない。肺より先に過去が軋むような咳だった。
西野芳彦は荷台の端から後方を見ていた。
HOTEL SEABOURNEはもう見えない。旧居留地の石造りの建物も、港へ降りる霧の向こうへ消えていた。遠くでサイレンが鳴っている。西側のものか、東側のものか、音だけでは分からない。
昔は、音で分かった。
銃も、靴音も、車のエンジンも。
二十五年は、耳を鈍らせる。
あるいは、聞きたくない音を増やす。
トラックを運転しているのは、BLUE ANCHORのバーテンダーだった。白いシャツに黒いベスト。後ろ姿は無表情で、運転にも感情がなかった。曲がる時も、急ぐ時も、必要なだけしかハンドルを動かさない。
藤堂は木箱にもたれたまま言った。
「王志明は、まだ車を持っているのか」
「知り合いか」
「紙を持っている人間は、だいたい知り合いだ」
「友人ではないんだな」
「友人は金にならん」
藤堂は薄く笑った。
「王はそう言うだろう」
「お前も言いそうだ」
「俺は昔、友人を金より安く使った」
西野は振り返らなかった。
雨が強くなった。
荷台の幌には穴があり、そこから細い水が落ちてくる。藤堂の鞄にかかりそうになったので、西野は木箱をずらした。
藤堂がそれを見た。
「紙に優しいな」
「紙が濡れると、お前が喋りすぎる」
「乾いていても喋る」
「知っている」
港の倉庫街へ入った。
夜になる前の港は、昼でも夜でもなかった。クレーンは黒い骨のように立ち、倉庫の壁には英語、漢字、ロシア語の貨物番号が古い傷のように残っている。遠くに国防軍の哨戒艇が見えた。その向こうに、外国船の灯が低く浮いている。
トラックは、三棟目の倉庫の前で止まった。
表には「王海運倉庫」と書かれている。古い字だ。日本語の下に中国語、その下に英語。隣の壁には、西ドイツの工作機械会社の広告が貼られていた。端が破れ、雨に濡れて、歯車の絵だけが残っている。
バーテンダーが荷台の後ろを開けた。
「ここです」
西野は先に降りた。
周囲を見る。
港湾労働者の姿はない。遠くに一人、雨具を着た男が荷車を押している。見える場所に尾はない。見えない場所にいないとは限らない。
藤堂を降ろす。
老人は足をつく時に一瞬だけ顔を歪めたが、声は出さなかった。
「その足でよくホテルまで逃げたな」
「逃げる時は、足より先に恥が動く」
「まだ残っているのか」
「だから逃げたんだ」
バーテンダーは倉庫の錠を開けた。
中は暗かった。
奥で裸電球が一つだけ点く。濡れた木箱、麻袋、機械油、古い紙、魚の缶詰の匂いが混ざっていた。海の匂いは外より薄い。かわりに、国境を越えたものが黙って積まれている匂いがした。
木箱には、さまざまな表示があった。
KOBE - TAIPEI
MALMÖ MACHINERY PARTS
NIIGATA PEOPLE'S FISHERY
USED SCHOOL BOOKS
新潟人民水産公社。
西野はその文字に目を止めた。
ロシア語併記の缶詰。人民暦二十八年製造。大阪冬季救援会で金斗満が嫌がったものと同じ種類だった。
王志明の倉庫には、思想の違う荷物が同じ棚に並んでいた。
資本主義も、共産主義も、港では木箱になる。
バーテンダーが言った。
「王さんからです。夜明けまでなら、ここは空いています」
「その後は」
「荷が入ります」
「安全は夜明けまでか」
「安全ではありません」
バーテンダーは淡々と言った。
「時間です。ここで売れるのは」
藤堂が笑った。
「王らしい」
「水と毛布は奥に。電話はありません。外へ出るなら裏口を使ってください」
「お前は」
「店に戻ります。店が閉まると、王さんが困ります」
「店が開いても、誰かが困る」
バーテンダーは答えなかった。
彼はすぐに倉庫を出た。
トラックのエンジン音が遠ざかる。
倉庫に残ったのは、西野と藤堂と雨の音だけだった。
藤堂は木箱の上に腰を下ろした。
息が荒い。
西野は奥から毛布を持ってきて、藤堂へ投げた。老人は受け取り損ね、膝の上に落とした。
「乱暴になったな」
「年寄り扱いしてやった」
「それはどうも」
藤堂は毛布を肩にかけた。濡れた上着の襟から、古い煙草と薬の匂いがした。
西野は倉庫の出入口へ戻り、隙間から外を見た。
雨が強くなっている。
港の灯がにじんでいる。
誰かが来るなら、音より先に水の揺れで分かるかもしれない。
「撃たないのか」
藤堂が言った。
西野は振り向かない。
「お前がそれを何度も聞くから、撃つ気が減る」
「年寄りは確認が多い」
「市役所もだ」
「それで?」
「何が」
「お前は俺を撃ちに来た。撃たなかった。理由を聞かせろ」
西野は扉の隙間を見たまま言った。
「理由があると思うのか」
「理由がある奴ほど、理由がないと言いたがる」
西野は藤堂の方を向いた。
「お前を撃つと、加納の死が無駄になる」
藤堂は目を細めた。
「撃たなくても無駄だ」
西野は答えなかった。
藤堂は続けた。
「死んだ人間の意味を、あとから作ろうとするな。お前は役所に長くいすぎた。西の奴らは他人の死に自分を投影しがちだ」
「お前が言うな」
「だから言う」
雨が屋根を叩いた。
倉庫の奥で、水が一滴、どこかの缶に落ちる音がした。
規則正しい。
時間を刻んでいるようだった。
西野は木箱の向かいに座った。
間に、古い機械部品の箱が一つある。
机の代わりだった。
「話せ」
「何から」
「東の今」
藤堂は毛布の端を握った。
「お前が知っている東京は、もうない」
「それは聞いた」
「聞いただけでは足りんと言った」
「なら、見たように話せ」
藤堂は少し黙った。
それから、遠い街を見るような目になった。
「東京湾岸には、夜でも灯りがある。昔の工場の灯りじゃない。ホテルの灯りだ。西ドイツのガラスと、ソ連の鉄骨と、日本の労働者が組んだ灯りだ。ロビーではロシア語と日本語が混ざる。党の子弟は、モスクワで覚えた発音でフランス産の酒を頼む」
「人民の国だな」
「人民は朝、トロリーバスに乗る。共同住宅から工場へ。悪い生活ではない。暖房は入る。医者にもかかれる。学校には昼食がある。子どもは、親の財布で病院に行くかどうかを決めなくていい」
西野は片桐の言葉を思い出した。
私の育った住宅には、冬でも暖房が入りました。
母は病院で金を出しませんでした。
学校には昼食がありました。
「それを信じている若いのがいた」
「片桐か」
「知っているのか」
「顔は知らん。だが思想は知っている」
藤堂は咳をした。
「俺たちの世代は、人民日本を作るものだと思っていた。あの子らは違う。生まれた時から人民日本があった。人民暦で誕生日を覚え、学校でロシア語を習い、赤土曜に道路を掃き、共同住宅で育った。あの国は、あいつらには任務じゃない。故郷だ」
「故郷なら、人を消していいのか」
「どの故郷も、消す名前は持っている」
藤堂は言った。
「西もな」
西野は黙った。
藤堂は倉庫の棚に積まれた缶詰を見た。
「新潟の缶詰か。向こうの缶詰は、昔よりうまくなった」
「金斗満は嫌がっていた」
「逃げてきた人間に、逃げてきた国の缶詰を食わせれば、そうなる」
「中身は魚だ」
「魚も馬鹿じゃない。どこを泳いだかは魚自身が知ってる」
西野は一瞬、金斗満と同じ言葉だと思った。
藤堂は知らずに続けた。
「国は、舌にも残る。暦にも、歌にも、子どもの本にも残る。だから厄介だ。秘密警察だけなら壊せる。配給所と学校と劇場を持った国は、簡単には壊れない」
「お前はそれを捨てた」
「先に捨てられた」
藤堂は薄く笑った。
「王志明に言われたか」
「亡命者は、祖国に捨てられる前に逃げた人間だと」
「商売人は、たまに正しい。間違えると金を失うからな」
雨の音が強くなった。
倉庫の鉄扉が風で小さく鳴った。西野は立ち上がりかけたが、音だけだと判断して座り直した。
藤堂はそれを見ていた。
「まだ身体は動く」
「お前に褒められても嬉しくない」
「褒めてはいない。確認だ」
藤堂は胸ポケットから小さな薬包を出し、水なしで飲んだ。苦そうに顔をしかめる。
「薬か」
「老人の弾薬だ」
「切れたら」
「口が止まる」
「それは助かる」
「だから切らさん」
藤堂はしばらく息を整えた。
西野は待った。
役所では、老人が息を整えるのを待つことも仕事だった。
その待ち方は、ここでも役に立った。
「一九六五年」
藤堂が言った。
「新経済政策」
「知っている」
「知っていることを疑え。お前が西で聞いたNEPと、東京で起きたNEPは違う。表向きは、外資導入、合弁企業、技術移転。東京湾岸が開き、新潟にパイプラインが来て、旧財閥の残骸が国営企業に組み直された。西では、社会主義が資本主義の真似を始めたと笑っただろう」
「大阪の食堂でも笑っている」
「笑っている間に、古い革命家は消えた」
藤堂の声が低くなった。
「外資を入れるには、古い夢が邪魔だった。モスクワから戻った若い官僚たちは、計画を信じていた。革命ではなく管理を信じていた。人間も、工場も、外貨も、潜伏網も、全部帳簿の中へ入れた」
「潜伏網も」
「そうだ」
藤堂は西野を見た。
「お前たちも帳簿に戻された」
「戻された?」
「西に深く潜った配置員は、初期には英雄だった。生きた橋だった。だが二十年、三十年経つと、橋は勝手に土地になる。家族を作り、職場を持ち、近所に顔を覚えられ、方言を覚える。橋のはずのものが、向こう岸の地面になる」
西野は黙った。
「東京はいま、それを嫌う」
「古くなったからか」
「違う」
藤堂は言った。
「人間になったからだ」
倉庫の奥で、水滴が缶に落ちた。
一つ。
二つ。
三つ。
藤堂の言葉は、ゆっくり沈んだ。
「人間は管理しにくい。配置員は、配置員であるうちは使える。夫になり、父になり、市役所の人間になると、使いにくい。お前はもう、任務だけでは動かない可能性がある。だから確認された」
「加納を撃たせた」
「そうだ」
「撃った」
「そうだ」
「それでも処分対象か」
「撃てたから危険なんだ」
西野は藤堂を見た。
「どういう意味だ」
「お前はまだ撃てる。西で二十五年暮らしても、東の命令で人を撃てる。だが、撃ったあとで考える。考える配置員は危険だ」
西野は答えなかった。
加納の血が、爪の縁に戻るような気がした。
もう洗った。
何度も洗った。
それでも、藤堂の言葉は血の乾き方に似ていた。
「祖国が待つことはない」
西野は言った。
「命令が待つだけだ」
藤堂は笑った。
声を出さずに笑った。
「そう言う奴ほど、祖国に待っていてほしいんだ」
西野は何も言わなかった。
藤堂は煙草を探した。濡れていた。諦めて、指の間で折った。
「お前は、分かっているつもりだった。昔からそうだ。十五の頃から、分かった顔をしていた。あれは生き延びるには便利だったが、本当に分かることとは別だ」
「何が言いたい」
「お前は、祖国が命令だけでできていると思いたかった。そう思えば、裏切られても傷が浅いからだ」
雨が屋根を打った。
「だが違う。祖国は、命令だけではない。配給所のパン、学校の歌、住宅の暖房、母親の病院代、人民暦の祝日、児童書の挿絵、東京湾岸の灯り。そういうものでもできている」
藤堂は西野を見た。
「そして、そういうものごと、お前を切る」
西野は、片桐の目を思い出した。
私の国です。
嘘ではなかった。
だから厄介だった。
「藤堂」
「何だ」
「お前は、まだ東を憎んでいるのか」
藤堂は少し考えた。
「憎んでいるなら楽だった」
「では」
「懐かしい」
西野は藤堂を見た。
藤堂は笑わなかった。
「それが一番面倒くさい。俺は逃げた。売った。残した。多くを見殺しにした。それでも、東京の冬を覚えている。人民文化会館の安い席で見たチェーホフを覚えている。食堂の黒パンの味も、ロシア語講師の下手な冗談も、古い地下鉄の湿った匂いも覚えている」
藤堂は毛布を握った。
「人間は、憎むだけでは国を失えない」
西野は黙った。
港の外で汽笛が鳴った。
雨が少し弱まる。
遠くで車の音。
近づいてはいない。
まだ。
「それで、俺に何を見せるつもりだ」
西野が言った。
藤堂は鞄を膝に置いた。
古い革の鞄だった。角が擦り切れ、金具はくすんでいる。逃亡者の鞄にしては重そうだった。
「お前が撃たなかった理由を、あとで後悔できるものだ」
「今でも後悔している」
「ふん。もっと増やしてやる」
藤堂は鞄の留め金に手をかけた。
その時、倉庫の外で足音がした。
一つではない。
西野はすぐに立った。
藤堂も動こうとしたが、西野が手で制した。
雨の音に紛れて、何者かが倉庫の扉の前を通る。
足は止まらない。
通り過ぎる。
遠ざかる。
港湾労働者か。
尾か。
王の人間か。
西か。
東か。
分からない。
分からないまま、西野はしばらく銃に手をかけていた。
藤堂は鞄から手を離さなかった。
足音が消えた。
西野は言った。
「開けろ」
藤堂は頷いた。
「赤黒台帳だ」
「名前が悪い」
「中身はもっと悪い」
藤堂は鞄を開けた。
中には、古い革張りのノートが一冊と、薄いファイルが数冊入っていた。
西野はそれを見た。
ただの紙束だった。
だが、倉庫の中の空気が少し重くなったように感じた。
藤堂が言った。
「これを見れば、お前の市役所も、俺の東京も、同じ紙の上にあると分かる」
西野はノートに手を伸ばさなかった。
まだ触れたくなかった。
触れれば、加納の死がまた形を変える気がした。
藤堂はノートを自分の膝に置いた。
「次の雨が強くなる前に、読め」
「なぜ雨を気にする」
「雨の日は、尾行の靴音が消える」
西野は扉の方を見た。
港の雨は、また強くなりはじめていた。
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