第十八話 赤黒台帳
雨は、倉庫の屋根を叩いていた。
神戸の雨は大阪の雨より薄い。だが、港に落ちると重く聞こえる。海と鉄と木箱と油の上に降るからだろう。王海運倉庫の中では、裸電球が一つだけ揺れていた。
藤堂鶴彦は、古い鞄を膝に置いていた。
西野芳彦は、まだそれに触れていなかった。
触れれば、何かが変わる。
そんな予感があった。
藤堂は言った。
「赤黒台帳だ」
「名前が悪い」
「中身はもっと悪い」
藤堂は鞄の中から、一冊のノートを出した。
古い革張りだった。
背表紙は割れかけ、角は何度も指で触られて丸くなっている。表紙には何も書かれていなかった。黒とも赤とも言えない、長く汗と煙を吸った色をしていた。
さらに薄い紙束が数冊。
紐で綴じられた写し。
複写紙の跡が残る報告書。
ところどころに外国製のクリップ。
古いものと新しいものが、一つの鞄に押し込まれている。
「台帳というより、墓場だな」
西野が言った。
藤堂は小さく笑った。
「墓場には、まだ名前がある。これはもっと悪い。名前の使い道が書いてある」
藤堂はノートを開いた。
ページは、赤と黒の二段に分かれていた。
左が赤。
右が黒。
その間に、細い灰色の欄があった。
赤い欄には、東側の線。
黒い欄には、西側の線。
灰色の欄には、そのどちらにも属しきれない者たち。
ページの端は、めくりすぎて柔らかくなっていた。
二十年、三十年、人の名前を記録し続けた手の跡だった。
西野はページを見た。
氏名。
偽名。
所属。
接触線。
監視元。
利用価値。
切断可否。
家族関係。
備考。
役所の台帳に似ていた。
違うのは、扶助額の欄が、切断可否に変わっていることだけだった。
「お前が作ったのか」
「全部ではない」
藤堂は言った。
「赤は東京から盗んだ写し。黒は西側から流れた紙。灰色は俺が書いた」
「灰色」
「どちらの台帳にも、まともに載らん連中だ。だが、実際には一番多い」
藤堂はページをめくった。
西野は、最初の名で手を止めた。
山下敬一。
赤の欄には、短くこうあった。
伝達補助。符丁運搬。意味告知不要。
黒の欄には、
労組周辺者。公安照会中。監視優先度低。
灰色の欄には、藤堂の字で書かれていた。
自分が何を運ぶか知らない男。
知れば運べなかった。
西野はページを見たまま言った。
「山下は、最初から死ぬ予定だったのか」
藤堂はすぐには答えなかった。
雨が屋根を打つ。
「予定ではない」
「結果か」
「構造だ」
「便利な言い方だな」
「お前も使う」
西野は否定しなかった。
藤堂は続けた。
「意味を知らない伝令は、安全だ。捕まっても何も吐けない。だが、安全ということは、誰からも守られないということでもある。山下は赤からも黒からも、価値が低かった」
「だから死んだ」
「だから死んでも、誰の損にもならなかった」
西野はノートを閉じかけた。
藤堂が止めた。
「まだ早い」
次のページ。
加納誠。
赤の欄には、
救援会周辺。藤堂線疑い。信用確認対象。
黒の欄には、
学生運動関係。国家保安法注意対象。印刷所関係者。
灰色の欄には、藤堂の字。
西野への警告搬送。
本人は全容を知らず。
保全不可。
西野は、その三文字を見た。
保全不可。
「お前は、保全不可と書いていた」
「書いた」
「なら、死ぬことを知っていた」
「知っていた」
「それでも送った」
「送った」
「俺に、何を言わせたい」
「何も」
藤堂は言った。
「言うのは、お前だ」
西野は加納の欄を見た。
加納誠。
二十一歳。
大阪市立大学。
大阪冬季救援会。
書籍整理班。
接触線。
信用確認対象。
保全不可。
紙の上では、加納はもう人間ではなかった。
だが西野は知っている。
加納は震える声で少年を庇った。
荷札に住所を書き直した。
宮沢賢治の文庫本を落とした。
麻里の名を正式書類から外した。
東へ帰るな、と言った。
台帳には、そのどれも載っていなかった。
西野は低く言った。
「この紙には、あいつの声がない」
「台帳は声を嫌う」
藤堂は言った。
「声があると、切りにくくなる」
西野は黙った。
藤堂は、さらにページをめくった。
そこには、事件名があった。
大阪地下鉄爆破事件。
ページ全体が、他のものより新しい。タイプ打ち、赤鉛筆、黒鉛筆、手書きの追記。複数の紙から貼り合わせたようだった。
赤の欄。
実行線、不明。
強硬派関与濃厚。
目的、西側国家保安法運用強化誘導。
西日本社会不安拡大。
黒の欄。
事前断片情報あり。
対象駅・時刻特定不可。
警備増強見送り。
事件後利用価値、高。
灰色の欄。
死者は、どちらの欄にも入らない。
ただし、死後に両欄で使われる。
西野はページを見た。
文字が動かなかった。
それなのに、何かが崩れる音がした。
「東が置いたのか」
藤堂は答えた。
「東の一部が置いた」
「西は知っていたのか」
「西の一部は、何かが来ることを知っていた」
「止めなかったのか」
「止めきれなかったのかもしれん」
「違う言い方をするな」
藤堂は西野を見た。
「止めるより、使う方が簡単だった」
雨の音が急に大きくなった。
藤堂は続けた。
「東は爆弾を置いた。西は爆発を待った。どちらも日本人の顔をしていた」
西野は何も言わなかった。
地下鉄の破片。
市役所の窓口。
泣いていた女。
死亡者名簿。
冬季加算を求めた老人。
葬祭扶助。
要公安照会。
あの日、市役所へ飛んできたものは、爆弾の破片だけではなかった。
国家の都合も、いっしょに飛んできていた。
「証拠は」
西野が言った。
「断片だ」
「断片で人を責めるのか」
「断片で人を殺してきた男が、それを言うか」
藤堂の声は疲れていた。
怒っていない。
怒る体力が残っていないように聞こえた。
「完全な証拠など、国家は残さない。残るのは、記録の癖だ。削られた欄。遅れた通達。回覧されなかった警告。出されなかった警備命令。多すぎる事後予算。早すぎる公式見解」
「役所の仕事みたいだな」
「そうだ。国家の罪は、だいたい事務で残る」
西野はページを閉じなかった。
閉じれば、読んだことになる。
開いていれば、まだ途中だった。
藤堂はノートとは別の薄いファイルを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
中は、より新しい書類だった。
西野が見た瞬間、呼吸が少しだけ止まった。
大阪市役所。
民生局。
保護第一課。
黒の欄に記載がある。
西側監視線。
保護行政経由。
対象、左派系救援会、朝鮮避難民世帯、東側親族関係者。
庁内協力線あり。
赤の欄には、
西部長期配置員、W-17。
現名、西野芳彦。
職位、民生局保護第一課主査。
生活基盤、安定。
家族、妻一、娘一。
情動変数、増加。
灰色の欄。
二十五年は、任務より長い。
西野はその欄を見た。
藤堂の字だった。
「W-17」
「お前の番号だ」
「まだ使っているのか」
「東京は、名前より番号を長く使う」
西野は黒の欄を見た。
庁内協力線あり。
「誰だ」
藤堂は答えなかった。
「誰だ」
「知らん」
「嘘なら下手だ」
「本当に知らん。黒の欄は西側から流れた紙だ。俺が全部を持っているわけじゃない」
「庁内協力線」
西野は繰り返した。
自分の机。
佐伯の煙草。
木島の青い顔。
三好の判子。
庶務の封筒。
窓口に並ぶ人々。
市役所の中に、誰かがいる。
西側の目。
あるいは、もっと別のもの。
藤堂は言った。
「驚くな。お前が二十五年も役所に座っていて、誰にも見られていないと思っていたなら、そっちの方が驚きだ」
「俺は見られていた」
「ずっとな」
「いつから」
「この紙では十二年前から」
十二年。
西野は、なぜか佐伯の声を思い出した。
まだです。
同僚としては、忘れたことにしときます。
煙草を差し出す手。
西野はその記憶を、すぐに閉じた。
まだ、名前にしてはいけない。
名前にすれば、紙に載る。
藤堂は別の紙を出した。
「家族の欄もある」
「見せるな」
西野は言った。
声が、自分で思ったより早く出た。
藤堂は手を止めた。
「見ない方がいいか」
「見ても、何も変わらん」
「嘘だな」
西野は藤堂を睨んだ。
藤堂は紙を戻した。
「では、今は見せない」
「今は」
「台帳は、見ないことで消えるほど親切じゃない」
倉庫の外で、雨が強くなった。
鉄扉が風でわずかに鳴る。
西野は銃に手を近づけた。
藤堂はノートを閉じない。
「まだある」
「もう十分だ」
「十分と思った時に、人は一番間違える」
藤堂はページをめくった。
一枚だけ、色の違う紙が挟まっていた。
古い紙だった。
黄ばんでいる。
タイプ打ちではなく、手書きの写し。
見出しだけが見えた。
皇太子移送線。
京都。
一九四六年夏。
西野の目が止まった。
藤堂はそのページをすぐに閉じた。
「それは、まだ早い」
「見せろ」
「まだ早いと言った」
「昭和天皇のことか」
藤堂は黙った。
港の雨が、倉庫を包んでいた。
この世界のもっと古い傷が、紙の隙間から少しだけ見えた。
東京に残された天皇。
京都へ逃げた皇太子。
平成が西で始まり、東で消えた元号。
西野が十五になる前から、誰かが人間を線で運んでいた。
「お前は、何をどこまで知っている」
西野が言った。
藤堂はノートを閉じた。
「知っていること全部を言えば、俺はすぐ死ぬ。言わなくても、たぶん死ぬ」
「なら言え」
「お前は、死ぬ前の人間を雑に扱うな」
「俺は市役所の人間だ」
「だからだ」
藤堂はノートに手を置いた。
「西野。これは真実ではない。真実に近づくための、汚れた紙だ。赤も黒も嘘をつく。灰色も、俺が書いた以上、俺の嘘が混じる」
「なら、何を信じろと」
「信じるな」
藤堂は言った。
「照合しろ」
その言葉は、藤堂が昔教えた訓練の言葉だった。
一つの情報を信じるな。
三つの無関係な情報を照合しろ。
人間は嘘をつく。
嘘のつき方は、時々一致する。
西野は、ページをもう一度開いた。
大阪市役所。
庁内協力線あり。
西側監視線。
W-17。
家族、妻一、娘一。
情動変数、増加。
自分の人生が、紙の上で説明されていた。
二十五年の味噌汁。
麻里の進路相談。
紀子の「傘、持っていきなさい」。
佐伯の煙草。
木島の怒り。
三好の判子。
それらが、情動変数という一語に押し込まれていた。
西野は言った。
「この紙を書いた奴を殺したい」
藤堂は言った。
「そいつは、たぶん何人もいる」
「なら、何人でもいい」
「いい顔になってきた」
「褒めるな」
「褒めていない」
藤堂は、ようやくノートを閉じた。
外で足音がした。
今度は止まった。
倉庫の扉の前だった。
西野は銃を抜いた。
藤堂も鞄を抱える。
雨の音の向こうで、誰かが短く咳をした。
若い咳ではない。
遠山か。
片桐か。
王の人間か。
港湾労働者か。
西野は息を止めた。
扉の下の隙間から、煙草の火が一瞬だけ赤く光った。
それから、消えた。
誰も入ってこなかった。
足音もなかった。
ただ、扉の下に、一枚の紙が滑り込んできた。
西野はしばらく動かなかった。
藤堂が低く言った。
「拾え」
西野は銃を構えたまま、紙を拾った。
紙には、鉛筆で一行だけ書かれていた。
民生局の窓口は、明日も開く。
署名はない。
西野は紙を見た。
雨の音が、急に遠くなった。
市役所。
大阪。
家族。
誰かが、そこを見ている。
東か西か。
赤か黒か。
灰色か。
西野には、もう分からなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




