表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/20

第十八話 赤黒台帳

雨は、倉庫の屋根を叩いていた。


神戸の雨は大阪の雨より薄い。だが、港に落ちると重く聞こえる。海と鉄と木箱と油の上に降るからだろう。王海運倉庫の中では、裸電球が一つだけ揺れていた。


藤堂鶴彦は、古い鞄を膝に置いていた。

西野芳彦は、まだそれに触れていなかった。

触れれば、何かが変わる。


そんな予感があった。

藤堂は言った。


「赤黒台帳だ」

「名前が悪い」

「中身はもっと悪い」


藤堂は鞄の中から、一冊のノートを出した。


古い革張りだった。

背表紙は割れかけ、角は何度も指で触られて丸くなっている。表紙には何も書かれていなかった。黒とも赤とも言えない、長く汗と煙を吸った色をしていた。


さらに薄い紙束が数冊。

紐で綴じられた写し。

複写紙の跡が残る報告書。

ところどころに外国製のクリップ。

古いものと新しいものが、一つの鞄に押し込まれている。


「台帳というより、墓場だな」


西野が言った。

藤堂は小さく笑った。


「墓場には、まだ名前がある。これはもっと悪い。名前の使い道が書いてある」


藤堂はノートを開いた。

ページは、赤と黒の二段に分かれていた。

左が赤。

右が黒。


その間に、細い灰色の欄があった。


赤い欄には、東側の線。

黒い欄には、西側の線。

灰色の欄には、そのどちらにも属しきれない者たち。


ページの端は、めくりすぎて柔らかくなっていた。

二十年、三十年、人の名前を記録し続けた手の跡だった。


西野はページを見た。


氏名。

偽名。

所属。

接触線。

監視元。

利用価値。

切断可否。

家族関係。

備考。


役所の台帳に似ていた。

違うのは、扶助額の欄が、切断可否に変わっていることだけだった。


「お前が作ったのか」

「全部ではない」


藤堂は言った。


「赤は東京から盗んだ写し。黒は西側から流れた紙。灰色は俺が書いた」

「灰色」

「どちらの台帳にも、まともに載らん連中だ。だが、実際には一番多い」


藤堂はページをめくった。

西野は、最初の名で手を止めた。


山下敬一。


赤の欄には、短くこうあった。

伝達補助。符丁運搬。意味告知不要。


黒の欄には、

労組周辺者。公安照会中。監視優先度低。


灰色の欄には、藤堂の字で書かれていた。


自分が何を運ぶか知らない男。

知れば運べなかった。


西野はページを見たまま言った。


「山下は、最初から死ぬ予定だったのか」


藤堂はすぐには答えなかった。

雨が屋根を打つ。


「予定ではない」

「結果か」

「構造だ」

「便利な言い方だな」

「お前も使う」


西野は否定しなかった。

藤堂は続けた。


「意味を知らない伝令は、安全だ。捕まっても何も吐けない。だが、安全ということは、誰からも守られないということでもある。山下は赤からも黒からも、価値が低かった」

「だから死んだ」

「だから死んでも、誰の損にもならなかった」


西野はノートを閉じかけた。

藤堂が止めた。


「まだ早い」


次のページ。

加納誠。


赤の欄には、


救援会周辺。藤堂線疑い。信用確認対象。


黒の欄には、


学生運動関係。国家保安法注意対象。印刷所関係者。


灰色の欄には、藤堂の字。


西野への警告搬送。

本人は全容を知らず。

保全不可。


西野は、その三文字を見た。

保全不可。


「お前は、保全不可と書いていた」

「書いた」

「なら、死ぬことを知っていた」

「知っていた」

「それでも送った」

「送った」

「俺に、何を言わせたい」

「何も」


藤堂は言った。


「言うのは、お前だ」


西野は加納の欄を見た。


加納誠。

二十一歳。

大阪市立大学。

大阪冬季救援会。

書籍整理班。

接触線。

信用確認対象。

保全不可。


紙の上では、加納はもう人間ではなかった。


だが西野は知っている。


加納は震える声で少年を庇った。

荷札に住所を書き直した。

宮沢賢治の文庫本を落とした。

麻里の名を正式書類から外した。

東へ帰るな、と言った。


台帳には、そのどれも載っていなかった。

西野は低く言った。


「この紙には、あいつの声がない」

「台帳は声を嫌う」


藤堂は言った。


「声があると、切りにくくなる」


西野は黙った。


藤堂は、さらにページをめくった。

そこには、事件名があった。


大阪地下鉄爆破事件。


ページ全体が、他のものより新しい。タイプ打ち、赤鉛筆、黒鉛筆、手書きの追記。複数の紙から貼り合わせたようだった。


赤の欄。


実行線、不明。

強硬派関与濃厚。

目的、西側国家保安法運用強化誘導。

西日本社会不安拡大。


黒の欄。


事前断片情報あり。

対象駅・時刻特定不可。

警備増強見送り。

事件後利用価値、高。


灰色の欄。


死者は、どちらの欄にも入らない。

ただし、死後に両欄で使われる。


西野はページを見た。

文字が動かなかった。

それなのに、何かが崩れる音がした。


「東が置いたのか」


藤堂は答えた。


「東の一部が置いた」

「西は知っていたのか」

「西の一部は、何かが来ることを知っていた」

「止めなかったのか」

「止めきれなかったのかもしれん」

「違う言い方をするな」


藤堂は西野を見た。


「止めるより、使う方が簡単だった」


雨の音が急に大きくなった。

藤堂は続けた。


「東は爆弾を置いた。西は爆発を待った。どちらも日本人の顔をしていた」


西野は何も言わなかった。


地下鉄の破片。

市役所の窓口。

泣いていた女。

死亡者名簿。

冬季加算を求めた老人。

葬祭扶助。

要公安照会。


あの日、市役所へ飛んできたものは、爆弾の破片だけではなかった。

国家の都合も、いっしょに飛んできていた。


「証拠は」


西野が言った。


「断片だ」

「断片で人を責めるのか」

「断片で人を殺してきた男が、それを言うか」


藤堂の声は疲れていた。


怒っていない。

怒る体力が残っていないように聞こえた。


「完全な証拠など、国家は残さない。残るのは、記録の癖だ。削られた欄。遅れた通達。回覧されなかった警告。出されなかった警備命令。多すぎる事後予算。早すぎる公式見解」

「役所の仕事みたいだな」

「そうだ。国家の罪は、だいたい事務で残る」


西野はページを閉じなかった。


閉じれば、読んだことになる。

開いていれば、まだ途中だった。

藤堂はノートとは別の薄いファイルを取り出した。

表紙には何も書かれていない。


中は、より新しい書類だった。


西野が見た瞬間、呼吸が少しだけ止まった。


大阪市役所。


民生局。


保護第一課。


黒の欄に記載がある。


西側監視線。

保護行政経由。

対象、左派系救援会、朝鮮避難民世帯、東側親族関係者。

庁内協力線あり。


赤の欄には、


西部長期配置員、W-17。

現名、西野芳彦。

職位、民生局保護第一課主査。

生活基盤、安定。

家族、妻一、娘一。

情動変数、増加。


灰色の欄。

二十五年は、任務より長い。

西野はその欄を見た。

藤堂の字だった。


「W-17」

「お前の番号だ」

「まだ使っているのか」

「東京は、名前より番号を長く使う」


西野は黒の欄を見た。

庁内協力線あり。


「誰だ」


藤堂は答えなかった。


「誰だ」

「知らん」

「嘘なら下手だ」

「本当に知らん。黒の欄は西側から流れた紙だ。俺が全部を持っているわけじゃない」

「庁内協力線」


西野は繰り返した。


自分の机。

佐伯の煙草。

木島の青い顔。

三好の判子。

庶務の封筒。

窓口に並ぶ人々。


市役所の中に、誰かがいる。

西側の目。

あるいは、もっと別のもの。


藤堂は言った。


「驚くな。お前が二十五年も役所に座っていて、誰にも見られていないと思っていたなら、そっちの方が驚きだ」

「俺は見られていた」

「ずっとな」

「いつから」

「この紙では十二年前から」


十二年。


西野は、なぜか佐伯の声を思い出した。


まだです。


同僚としては、忘れたことにしときます。


煙草を差し出す手。


西野はその記憶を、すぐに閉じた。

まだ、名前にしてはいけない。

名前にすれば、紙に載る。


藤堂は別の紙を出した。


「家族の欄もある」

「見せるな」


西野は言った。

声が、自分で思ったより早く出た。

藤堂は手を止めた。


「見ない方がいいか」

「見ても、何も変わらん」

「嘘だな」


西野は藤堂を睨んだ。

藤堂は紙を戻した。


「では、今は見せない」

「今は」

「台帳は、見ないことで消えるほど親切じゃない」


倉庫の外で、雨が強くなった。

鉄扉が風でわずかに鳴る。


西野は銃に手を近づけた。

藤堂はノートを閉じない。


「まだある」

「もう十分だ」

「十分と思った時に、人は一番間違える」


藤堂はページをめくった。


一枚だけ、色の違う紙が挟まっていた。


古い紙だった。

黄ばんでいる。

タイプ打ちではなく、手書きの写し。


見出しだけが見えた。


皇太子移送線。

京都。

一九四六年夏。


西野の目が止まった。

藤堂はそのページをすぐに閉じた。


「それは、まだ早い」

「見せろ」

「まだ早いと言った」

「昭和天皇のことか」


藤堂は黙った。


港の雨が、倉庫を包んでいた。


この世界のもっと古い傷が、紙の隙間から少しだけ見えた。

東京に残された天皇。

京都へ逃げた皇太子。

平成が西で始まり、東で消えた元号。

西野が十五になる前から、誰かが人間を線で運んでいた。


「お前は、何をどこまで知っている」


西野が言った。

藤堂はノートを閉じた。


「知っていること全部を言えば、俺はすぐ死ぬ。言わなくても、たぶん死ぬ」

「なら言え」

「お前は、死ぬ前の人間を雑に扱うな」

「俺は市役所の人間だ」

「だからだ」


藤堂はノートに手を置いた。


「西野。これは真実ではない。真実に近づくための、汚れた紙だ。赤も黒も嘘をつく。灰色も、俺が書いた以上、俺の嘘が混じる」

「なら、何を信じろと」

「信じるな」


藤堂は言った。


「照合しろ」


その言葉は、藤堂が昔教えた訓練の言葉だった。


一つの情報を信じるな。

三つの無関係な情報を照合しろ。

人間は嘘をつく。

嘘のつき方は、時々一致する。


西野は、ページをもう一度開いた。


大阪市役所。

庁内協力線あり。

西側監視線。

W-17。

家族、妻一、娘一。

情動変数、増加。


自分の人生が、紙の上で説明されていた。


二十五年の味噌汁。

麻里の進路相談。

紀子の「傘、持っていきなさい」。

佐伯の煙草。

木島の怒り。

三好の判子。


それらが、情動変数という一語に押し込まれていた。


西野は言った。


「この紙を書いた奴を殺したい」


藤堂は言った。


「そいつは、たぶん何人もいる」

「なら、何人でもいい」

「いい顔になってきた」

「褒めるな」

「褒めていない」


藤堂は、ようやくノートを閉じた。


外で足音がした。

今度は止まった。

倉庫の扉の前だった。

西野は銃を抜いた。

藤堂も鞄を抱える。


雨の音の向こうで、誰かが短く咳をした。


若い咳ではない。


遠山か。

片桐か。

王の人間か。

港湾労働者か。


西野は息を止めた。


扉の下の隙間から、煙草の火が一瞬だけ赤く光った。


それから、消えた。

誰も入ってこなかった。


足音もなかった。

ただ、扉の下に、一枚の紙が滑り込んできた。


西野はしばらく動かなかった。

藤堂が低く言った。


「拾え」


西野は銃を構えたまま、紙を拾った。


紙には、鉛筆で一行だけ書かれていた。


民生局の窓口は、明日も開く。


署名はない。

西野は紙を見た。

雨の音が、急に遠くなった。

市役所。

大阪。

家族。


誰かが、そこを見ている。

東か西か。

赤か黒か。

灰色か。


西野には、もう分からなかった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ