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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十九話 この国

民生局の窓口は、明日も開く。


その紙は、朝まで西野芳彦の内ポケットにあった。


神戸の倉庫で、扉の下から滑り込んできた紙。署名はない。鉛筆の字は癖を消していた。強くも弱くもない。若くも老いてもいない。書いた人間の顔を、紙から削り落とした字だった。


藤堂鶴彦は、紙を見て笑わなかった。


「戻れ、ということだ」

「誰が」

「それを聞く時点で、お前はもう戻れん」


藤堂はそう言った。

西野は答えなかった。


赤黒台帳は藤堂の鞄に戻された。古い革張りのノート。赤と黒と灰色の欄。山下敬一。加納誠。大阪地下鉄爆破事件。大阪市役所民生局。西部長期配置員、W-17。


そして、庁内協力線あり。

藤堂はそれ以上、台帳を見せなかった。家族の欄も、皇太子移送線の紙も、閉じたままだった。


「見たいなら、また来い」


藤堂は言った。


「見たくないなら、なおさら来い」


西野は倉庫の外へ出た。


雨は上がっていた。港の舗道には水たまりが残り、夜明け前の神戸の灯がそこに揺れていた。王志明のバーテンダーが、何も聞かずに駅の近くまで送った。トラックの荷台には、もう何も積まれていなかった。


三宮から大阪へ向かう始発近い列車は、眠った顔で満ちていた。


港湾労働者。会社員。朝鮮語で小さく話す女たち。国防軍の兵士。新聞を持った男。昨日までなら、すべて別々の人間に見えた。


今朝は、みな台帳の欄に見えた。


氏名。

住所。

扶養者。

所属。

監視元。

利用価値。


窓の外で、灰色の街が流れていた。


西野は吊革につかまりながら、内ポケットの紙を思い出していた。


民生局の窓口は、明日も開く。


命令ではなかった。

脅迫でもなかった。

予告に近い。


もっと正確に言えば、事実だった。

どんな夜のあとでも、窓口は開く。


人が死んでも、国が嘘をついても、紙が燃えても、誰かが扶助を申請しに来る。誰かが名前を書く。誰かがそれを読み、判を押す。


役所は、世界が壊れても、壊れていない顔で開く。

大阪駅に着いた頃には、朝の空気が動き始めていた。


西野はそのまま市役所へ向かった。


保護第一課の蛍光灯は、いつも通り白かった。誰かが湯呑みを洗い、誰かが朱肉の蓋を開け、誰かが電話に怒鳴られていた。机の上には、書類が積まれている。


扶養照会。

医療券。

住宅斡旋。

葬祭扶助。

公安照会。

救援会関係者身元確認。


神戸の倉庫で見た赤黒台帳と、よく似ていた。


違うのは、こちらの紙には生活を助けるふりがあることだった。


佐伯隆司が、隣の机から顔を上げた。


「おはようございます」

「おはよう」


佐伯は煙草をくわえた。火はつけなかった。


「今日、判子の音が遅いですな」


西野は処理簿から目を上げなかった。


「音まで聞くのか」

「同じ課に長くいると、顔より音の方が分かります」

「便利な耳やな」

「不便です。聞きたくない音も聞こえます」


西野は返事をしなかった。

佐伯も、それ以上言わなかった。


木島晴江が書類を抱えて来た。目の下が赤い。加納の死以降、よく眠れていない顔だった。


「西野さん、これ」


書類には、大阪冬季救援会の名があった。加納死亡後の代表者変更。書籍提供申請の継続可否。被災者児童への配布予定表。


「救援会、続けるみたいです」


「代表者は」

「大垣修平さんです」


木島の声に、かすかな嫌悪が混じった。


「でも、林さんが医療関係だけは別に扱いたいって。加納さんの件で、救援会の中も揉めているみたいです」

「そうか」


木島は書類を抱えたまま、立っていた。


「加納さん、本当に過激派だったんでしょうか」


西野は彼女を見た。

木島は逃げなかった。


加納が座っていた椅子は、窓口にまだあった。今日は別の相談者がそこに座る。明日はまた別の人間が座る。椅子は覚えない。人間だけが覚える。


「過激派という言葉は便利や」


西野は言った。


「便利な言葉で死んだ人を片づけるんですか」

「役所は、便利な言葉で生きてる人間も片づける」


木島は小さく首を振った。


「私は、そういう役所の人間になりたくないです」


佐伯が隣で言った。


「なりたくないと思ってるうちは、大丈夫ですわ」


木島は佐伯を見た。


「佐伯さんは?」

「わしはもう手遅れ」


木島は笑わなかった。

三好課長が奥から声を出した。


「木島君、救援会の書類は一度こちらへ回せ。公安照会も必要や」


木島の顔が硬くなった。


「またですか」

「またや」


三好は眼鏡を外し、目頭を押さえた。


「死人が出た。印刷所が燃えた。東側出版物も出た。照会せんわけにはいかん」

「本を配るだけでもですか」

「本が一番残る」


三好は言った。


「爆弾は一度で終わる。本は何度も読まれる」


木島は答えられなかった。

西野は、そのやり取りを聞きながら処理簿を開いた。


台帳。


どこにも同じものがある。

赤黒台帳だけが特別なのではない。

人を欄へ入れる習慣そのものが、国家だった。


午前中、窓口は開いた。


石炭代の相談。入院保証人の相談。公安に拘束された息子の荷物の相談。朝鮮避難民世帯の住宅相談。地下鉄爆破で父を亡くした少年の通学費。


民生局の窓口は、本当に開いた。


西野は淡々と処理した。

名前を聞き、住所を聞き、家族構成を聞き、収入を聞いた。


赤黒台帳の欄と同じことをしている。

その事実に、午前の終わり頃には慣れ始めていた。

人間は、怖いことにも慣れる。

それが一番怖い。


昼前、林美沙が来た。


黒いコートを着ていた。神戸で見た時と同じ服だった。髪は結んでいない。顔色は悪いが、前よりも静かだった。静かさの中に、熱が残っている。


木島がすぐに立ち上がった。


「林さん」


林は木島に少しだけ頭を下げた。


「申請、通りました。ありがとうございました」


西野は顔を上げた。


「市の手続きです」

「そうですね」


林は手にした書類を見た。


「あなたはいつも、自分のことではないという顔をして手続きしますね」


課内の空気が、ほんの少し動いた。


佐伯は煙草の箱を閉じた。

木島は林と西野を交互に見た。

三好は聞いていないふりをした。


西野は言った。


「遺体は」

「今日、引き取ります。加納の母親が来ます。まだ、新聞に書かれたことを信じていません」

「誰でも最初は信じない」

「あなたは信じたんですか」


西野は答えなかった。

林は机の端に指を置いた。爪は短く切られている。包帯の跡がまだ少し残っていた。


「私は、加納の死を忘れません」

「忘れろとは言っていない」

「でも、紙にされる」

「そうだ」

「なら、紙にならないものを探します」


西野は、初めて少しだけ林を見直した。


「何を」

「手です」


林は言った。


「誰が何を渡したか。誰が何を隠したか。誰が何を押さえたか。私は手を見ます」


西野は自分の手を机の下へ下げた。

林は気づいていた。

気づいて、見ない顔をした。


「また来ます」

「来ない方がいい」

「そう言われると、来る理由になります」


林は木島と一緒に窓口へ向かった。

木島が小声で何かを説明している。林はうなずいている。

佐伯が低く言った。


「西野さん」

「何や」

「林さん、強い人ですな」

「強い人間から壊れることもある」

「弱い人間も壊れます」

「どっちにしても壊れるな」

「ええ。せやから、役所は修理窓口みたいな顔をするんでしょうな」


西野は返事をしなかった。

午後、公安から電話が来た。


九条印刷所事件の事情聴取について。

西野は後日出頭するよう求められた。


電話を受けた三好は、しばらく受話器を置かなかった。置いたあと、西野を呼んだ。


「西野」

「はい」

「公安が、お前から話を聞きたいそうや」

「分かりました」

「分かりました、で済むのか」

「済まないなら、向こうが来ます」


三好は机の上で指を組んだ。


「お前、何に巻き込まれている」


西野は答えなかった。

三好は声を低くした。


「わしは、東も左も信用してへん。救援会も、加納という学生も、信用はしてへん」

「知っています」

「でも、お前が最近、何かを隠していることも分かる」


西野は三好を見た。

三好は続けた。


「隠し事には二種類ある。自分を守る隠し事と、周りを壊す隠し事や」


「私はどちらですか」

「それが分からんから聞いてる」

「なら、まだ答えられません」


三好は苦い顔をした。


「お前は昔から、答えないのが上手い」

「役所に長くいますから」

「役所のせいにするな」


その言葉には、怒りがあった。

だが、その奥に心配が少しだけ混じっていた。


西野はそれが見えた。

見えたから、何も言えなかった。


夕方、市役所を出ると、中之島の空は曇っていた。


川の水は鈍く、橋の上を通る人間は襟を立てている。国会のある中之島の方角には、黒い車が数台見えた。政府関係者か、公安か、米軍関係者か、車だけでは分からない。


西野は庁舎裏を通って帰ろうとした。

橋の手前に、男が立っていた。


五十代後半。古い背広。磨かれた靴。顔に特徴はない。

新聞は持っていなかった。


列車の男。

神戸の喫茶店の男。

ホテルの廊下で、若い公安に「撃つな」と言っていた男。


男は西野を見て、軽く頭を下げた。


「少し、よろしいですか」

「どちら様です」

「国家公安本部関西局、遠山甚一郎です」


名刺は出さなかった。

出さないことが、本物らしかった。


「事情聴取なら、正式な通知を」

「今日は違います」


遠山は川の方を見た。


「神戸の雨は冷えましたか」


西野は答えなかった。


「答えない。いいですね。答えない人間は、嘘をつく人間より長生きしますからな」

「公安の方は、皆さんそういう言い方をするんですか」

「若いのはもっと下手ですよ」


遠山はしばらく川を見ていた。


「加納誠の記録は、過激派関係者としてまとまりつつあります」


西野は黙っていた。


「死んだ人間は、反論しませんからね」

「この国では、死んだあとに名前まで変わるんですか」


遠山は、そこで西野を見た。


「今のです」

「何が」

「あなたは、この国、と言う。うちの国とは言わない。まあ言葉遊びみたいなもんですが」


風が川の上を渡った。


「いやあ、失敬。それだけで捕まえられるなら、私の仕事は楽なんですがね」


西野は遠山を見た。


「言葉遣いを取り締まるのも、国家公安の仕事ですか」

「お役所仕事で申し訳ない」

「お互い忙しいですね」

「ええ」


遠山は少しだけ笑った。


「この国は、言葉の隙間から崩れます」


この国。

遠山も、あえてそう言った。

西野はそれに気づいた。

遠山も、気づかせるために言った。


「何が欲しいんです」


西野は聞いた。


「今は、何も」

「なら、なぜ」

「見るためです」

「見てどうする」

「紙にします」


遠山は橋の欄干に手を置いた。


「あなたを捕まえるには、まだ確証が足りない。そのうち揃います」

「揃うまで待つ」

「揃う前に死なれても困ります」

「誰に」

「こちらにも、あちらにも」


その言い方で、西野は遠山がどこまで見ているかを少し知った。


少しだけだった。

遠山は人を安心させるために情報を出す男ではない。


「藤堂鶴彦」


遠山が言った。

西野は無表情のまま、心臓だけが一拍遅れた。


「ご存じですか」

「名前だけ」

「名前だけの人間に、会いに行く人もいるんですなあ」

「神戸には、いろいろな人がいます」

「ええ。亡命者、商人、米軍、国民党の残り火、東側の処理班。市役所の方も」


遠山は西野を見た。


「神戸は、少し遠すぎます。民生局の外回りには」

「必要なら、どこへでも行きます」

「誰の必要ですか」


西野は答えなかった。

遠山は頷いた。


「いいでしょう」


彼は橋から手を離した。


「今日は挨拶です」

「次は」

「紙が揃った時に」

「揃わなければ」

「その時は、揃わない理由を考えます」


遠山は歩き出した。

数歩行ってから、振り返らずに言った。


「西野さん」

「はい」

「家の前の車には、あまり近づかない方がいい。乗っている者が、こちらの者とは限りません」


西野は動かなかった。


遠山はそのまま橋を渡っていった。

川の上に、夕方の冷たい風が吹いていた。


西野はしばらく立っていた。


この国。

うちの国ではない。

東の国でもない。


どちらの国でもない場所に、彼は二十五年座っていたのかもしれない。


官舎に着いた頃には、日が落ちていた。

家の前に黒い車が停まっていた。


ライトは消えている。

中は見えない。


東側か。

西側か。

どちらでもない誰かか。


西野はナンバーを見た。

覚えられる。

まだ覚えられる。


だが、覚えたところで何になるのか、分からなかった。


二階の窓が少し開いた。

麻里が顔を出した。


「お父さん」


西野は見上げた。


「何や」

「また誰か来てるの?」


また。

その言葉が、いちばん重かった。


西野は答えなかった。

答えは、東と西と、家の前の黒い車の中にあった。

そのどれが自分の答えか、西野にはもう分からなかった。

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