第十九話 この国
民生局の窓口は、明日も開く。
その紙は、朝まで西野芳彦の内ポケットにあった。
神戸の倉庫で、扉の下から滑り込んできた紙。署名はない。鉛筆の字は癖を消していた。強くも弱くもない。若くも老いてもいない。書いた人間の顔を、紙から削り落とした字だった。
藤堂鶴彦は、紙を見て笑わなかった。
「戻れ、ということだ」
「誰が」
「それを聞く時点で、お前はもう戻れん」
藤堂はそう言った。
西野は答えなかった。
赤黒台帳は藤堂の鞄に戻された。古い革張りのノート。赤と黒と灰色の欄。山下敬一。加納誠。大阪地下鉄爆破事件。大阪市役所民生局。西部長期配置員、W-17。
そして、庁内協力線あり。
藤堂はそれ以上、台帳を見せなかった。家族の欄も、皇太子移送線の紙も、閉じたままだった。
「見たいなら、また来い」
藤堂は言った。
「見たくないなら、なおさら来い」
西野は倉庫の外へ出た。
雨は上がっていた。港の舗道には水たまりが残り、夜明け前の神戸の灯がそこに揺れていた。王志明のバーテンダーが、何も聞かずに駅の近くまで送った。トラックの荷台には、もう何も積まれていなかった。
三宮から大阪へ向かう始発近い列車は、眠った顔で満ちていた。
港湾労働者。会社員。朝鮮語で小さく話す女たち。国防軍の兵士。新聞を持った男。昨日までなら、すべて別々の人間に見えた。
今朝は、みな台帳の欄に見えた。
氏名。
住所。
扶養者。
所属。
監視元。
利用価値。
窓の外で、灰色の街が流れていた。
西野は吊革につかまりながら、内ポケットの紙を思い出していた。
民生局の窓口は、明日も開く。
命令ではなかった。
脅迫でもなかった。
予告に近い。
もっと正確に言えば、事実だった。
どんな夜のあとでも、窓口は開く。
人が死んでも、国が嘘をついても、紙が燃えても、誰かが扶助を申請しに来る。誰かが名前を書く。誰かがそれを読み、判を押す。
役所は、世界が壊れても、壊れていない顔で開く。
大阪駅に着いた頃には、朝の空気が動き始めていた。
西野はそのまま市役所へ向かった。
保護第一課の蛍光灯は、いつも通り白かった。誰かが湯呑みを洗い、誰かが朱肉の蓋を開け、誰かが電話に怒鳴られていた。机の上には、書類が積まれている。
扶養照会。
医療券。
住宅斡旋。
葬祭扶助。
公安照会。
救援会関係者身元確認。
神戸の倉庫で見た赤黒台帳と、よく似ていた。
違うのは、こちらの紙には生活を助けるふりがあることだった。
佐伯隆司が、隣の机から顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
佐伯は煙草をくわえた。火はつけなかった。
「今日、判子の音が遅いですな」
西野は処理簿から目を上げなかった。
「音まで聞くのか」
「同じ課に長くいると、顔より音の方が分かります」
「便利な耳やな」
「不便です。聞きたくない音も聞こえます」
西野は返事をしなかった。
佐伯も、それ以上言わなかった。
木島晴江が書類を抱えて来た。目の下が赤い。加納の死以降、よく眠れていない顔だった。
「西野さん、これ」
書類には、大阪冬季救援会の名があった。加納死亡後の代表者変更。書籍提供申請の継続可否。被災者児童への配布予定表。
「救援会、続けるみたいです」
「代表者は」
「大垣修平さんです」
木島の声に、かすかな嫌悪が混じった。
「でも、林さんが医療関係だけは別に扱いたいって。加納さんの件で、救援会の中も揉めているみたいです」
「そうか」
木島は書類を抱えたまま、立っていた。
「加納さん、本当に過激派だったんでしょうか」
西野は彼女を見た。
木島は逃げなかった。
加納が座っていた椅子は、窓口にまだあった。今日は別の相談者がそこに座る。明日はまた別の人間が座る。椅子は覚えない。人間だけが覚える。
「過激派という言葉は便利や」
西野は言った。
「便利な言葉で死んだ人を片づけるんですか」
「役所は、便利な言葉で生きてる人間も片づける」
木島は小さく首を振った。
「私は、そういう役所の人間になりたくないです」
佐伯が隣で言った。
「なりたくないと思ってるうちは、大丈夫ですわ」
木島は佐伯を見た。
「佐伯さんは?」
「わしはもう手遅れ」
木島は笑わなかった。
三好課長が奥から声を出した。
「木島君、救援会の書類は一度こちらへ回せ。公安照会も必要や」
木島の顔が硬くなった。
「またですか」
「またや」
三好は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「死人が出た。印刷所が燃えた。東側出版物も出た。照会せんわけにはいかん」
「本を配るだけでもですか」
「本が一番残る」
三好は言った。
「爆弾は一度で終わる。本は何度も読まれる」
木島は答えられなかった。
西野は、そのやり取りを聞きながら処理簿を開いた。
台帳。
どこにも同じものがある。
赤黒台帳だけが特別なのではない。
人を欄へ入れる習慣そのものが、国家だった。
午前中、窓口は開いた。
石炭代の相談。入院保証人の相談。公安に拘束された息子の荷物の相談。朝鮮避難民世帯の住宅相談。地下鉄爆破で父を亡くした少年の通学費。
民生局の窓口は、本当に開いた。
西野は淡々と処理した。
名前を聞き、住所を聞き、家族構成を聞き、収入を聞いた。
赤黒台帳の欄と同じことをしている。
その事実に、午前の終わり頃には慣れ始めていた。
人間は、怖いことにも慣れる。
それが一番怖い。
昼前、林美沙が来た。
黒いコートを着ていた。神戸で見た時と同じ服だった。髪は結んでいない。顔色は悪いが、前よりも静かだった。静かさの中に、熱が残っている。
木島がすぐに立ち上がった。
「林さん」
林は木島に少しだけ頭を下げた。
「申請、通りました。ありがとうございました」
西野は顔を上げた。
「市の手続きです」
「そうですね」
林は手にした書類を見た。
「あなたはいつも、自分のことではないという顔をして手続きしますね」
課内の空気が、ほんの少し動いた。
佐伯は煙草の箱を閉じた。
木島は林と西野を交互に見た。
三好は聞いていないふりをした。
西野は言った。
「遺体は」
「今日、引き取ります。加納の母親が来ます。まだ、新聞に書かれたことを信じていません」
「誰でも最初は信じない」
「あなたは信じたんですか」
西野は答えなかった。
林は机の端に指を置いた。爪は短く切られている。包帯の跡がまだ少し残っていた。
「私は、加納の死を忘れません」
「忘れろとは言っていない」
「でも、紙にされる」
「そうだ」
「なら、紙にならないものを探します」
西野は、初めて少しだけ林を見直した。
「何を」
「手です」
林は言った。
「誰が何を渡したか。誰が何を隠したか。誰が何を押さえたか。私は手を見ます」
西野は自分の手を机の下へ下げた。
林は気づいていた。
気づいて、見ない顔をした。
「また来ます」
「来ない方がいい」
「そう言われると、来る理由になります」
林は木島と一緒に窓口へ向かった。
木島が小声で何かを説明している。林はうなずいている。
佐伯が低く言った。
「西野さん」
「何や」
「林さん、強い人ですな」
「強い人間から壊れることもある」
「弱い人間も壊れます」
「どっちにしても壊れるな」
「ええ。せやから、役所は修理窓口みたいな顔をするんでしょうな」
西野は返事をしなかった。
午後、公安から電話が来た。
九条印刷所事件の事情聴取について。
西野は後日出頭するよう求められた。
電話を受けた三好は、しばらく受話器を置かなかった。置いたあと、西野を呼んだ。
「西野」
「はい」
「公安が、お前から話を聞きたいそうや」
「分かりました」
「分かりました、で済むのか」
「済まないなら、向こうが来ます」
三好は机の上で指を組んだ。
「お前、何に巻き込まれている」
西野は答えなかった。
三好は声を低くした。
「わしは、東も左も信用してへん。救援会も、加納という学生も、信用はしてへん」
「知っています」
「でも、お前が最近、何かを隠していることも分かる」
西野は三好を見た。
三好は続けた。
「隠し事には二種類ある。自分を守る隠し事と、周りを壊す隠し事や」
「私はどちらですか」
「それが分からんから聞いてる」
「なら、まだ答えられません」
三好は苦い顔をした。
「お前は昔から、答えないのが上手い」
「役所に長くいますから」
「役所のせいにするな」
その言葉には、怒りがあった。
だが、その奥に心配が少しだけ混じっていた。
西野はそれが見えた。
見えたから、何も言えなかった。
夕方、市役所を出ると、中之島の空は曇っていた。
川の水は鈍く、橋の上を通る人間は襟を立てている。国会のある中之島の方角には、黒い車が数台見えた。政府関係者か、公安か、米軍関係者か、車だけでは分からない。
西野は庁舎裏を通って帰ろうとした。
橋の手前に、男が立っていた。
五十代後半。古い背広。磨かれた靴。顔に特徴はない。
新聞は持っていなかった。
列車の男。
神戸の喫茶店の男。
ホテルの廊下で、若い公安に「撃つな」と言っていた男。
男は西野を見て、軽く頭を下げた。
「少し、よろしいですか」
「どちら様です」
「国家公安本部関西局、遠山甚一郎です」
名刺は出さなかった。
出さないことが、本物らしかった。
「事情聴取なら、正式な通知を」
「今日は違います」
遠山は川の方を見た。
「神戸の雨は冷えましたか」
西野は答えなかった。
「答えない。いいですね。答えない人間は、嘘をつく人間より長生きしますからな」
「公安の方は、皆さんそういう言い方をするんですか」
「若いのはもっと下手ですよ」
遠山はしばらく川を見ていた。
「加納誠の記録は、過激派関係者としてまとまりつつあります」
西野は黙っていた。
「死んだ人間は、反論しませんからね」
「この国では、死んだあとに名前まで変わるんですか」
遠山は、そこで西野を見た。
「今のです」
「何が」
「あなたは、この国、と言う。うちの国とは言わない。まあ言葉遊びみたいなもんですが」
風が川の上を渡った。
「いやあ、失敬。それだけで捕まえられるなら、私の仕事は楽なんですがね」
西野は遠山を見た。
「言葉遣いを取り締まるのも、国家公安の仕事ですか」
「お役所仕事で申し訳ない」
「お互い忙しいですね」
「ええ」
遠山は少しだけ笑った。
「この国は、言葉の隙間から崩れます」
この国。
遠山も、あえてそう言った。
西野はそれに気づいた。
遠山も、気づかせるために言った。
「何が欲しいんです」
西野は聞いた。
「今は、何も」
「なら、なぜ」
「見るためです」
「見てどうする」
「紙にします」
遠山は橋の欄干に手を置いた。
「あなたを捕まえるには、まだ確証が足りない。そのうち揃います」
「揃うまで待つ」
「揃う前に死なれても困ります」
「誰に」
「こちらにも、あちらにも」
その言い方で、西野は遠山がどこまで見ているかを少し知った。
少しだけだった。
遠山は人を安心させるために情報を出す男ではない。
「藤堂鶴彦」
遠山が言った。
西野は無表情のまま、心臓だけが一拍遅れた。
「ご存じですか」
「名前だけ」
「名前だけの人間に、会いに行く人もいるんですなあ」
「神戸には、いろいろな人がいます」
「ええ。亡命者、商人、米軍、国民党の残り火、東側の処理班。市役所の方も」
遠山は西野を見た。
「神戸は、少し遠すぎます。民生局の外回りには」
「必要なら、どこへでも行きます」
「誰の必要ですか」
西野は答えなかった。
遠山は頷いた。
「いいでしょう」
彼は橋から手を離した。
「今日は挨拶です」
「次は」
「紙が揃った時に」
「揃わなければ」
「その時は、揃わない理由を考えます」
遠山は歩き出した。
数歩行ってから、振り返らずに言った。
「西野さん」
「はい」
「家の前の車には、あまり近づかない方がいい。乗っている者が、こちらの者とは限りません」
西野は動かなかった。
遠山はそのまま橋を渡っていった。
川の上に、夕方の冷たい風が吹いていた。
西野はしばらく立っていた。
この国。
うちの国ではない。
東の国でもない。
どちらの国でもない場所に、彼は二十五年座っていたのかもしれない。
官舎に着いた頃には、日が落ちていた。
家の前に黒い車が停まっていた。
ライトは消えている。
中は見えない。
東側か。
西側か。
どちらでもない誰かか。
西野はナンバーを見た。
覚えられる。
まだ覚えられる。
だが、覚えたところで何になるのか、分からなかった。
二階の窓が少し開いた。
麻里が顔を出した。
「お父さん」
西野は見上げた。
「何や」
「また誰か来てるの?」
また。
その言葉が、いちばん重かった。
西野は答えなかった。
答えは、東と西と、家の前の黒い車の中にあった。
そのどれが自分の答えか、西野にはもう分からなかった。
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